その交響曲は全く想像を絶したものだった。どの楽章にもバス独唱と男声合唱が加わり、五部からなる一種のカンタータとして構想されているのも異色だが(ショスタコーヴィチの交響曲に声楽が加わるのは1929年の第三番以来のこと)、何よりも度肝を抜かれたのは、その歌詞の調子の激越さである。とりわけ第一楽章「バビ・ヤール」の内容は凄まじい。この「世界初録音」LPの解説書から冒頭部分の歌詞(訳=森輝以)を書き写してみる(表記を少し改変)。
バビ・ヤールに記念碑はない
切り立つ崖が墓石として立っていて
ぼくに恐れを与える
ぼくは自分が ユダヤの民にように
年を経ているように思われる
ここでぼくは 古代エジプトを横切る
ここで ぼくは死に 十字架に釘打たれた
いまもぼくには その傷跡がある
バビ・ヤールとはウクライナの古都キエフの郊外の地名。ここで第二次大戦中の1941年9月、数万人ものユダヤ人の大虐殺が行われた。直接の実行者はここに進駐したナチス・ドイツ軍だったが、ウクライナ側にも蛮行に加担した者たちが少なくないと噂され、戦後のソ連でもバビ・ヤールの話題はずっとタブーだったというから、これをあえてテーマとした詩人エフトゥシェンコの勇気は大いに称えられよう。
そもそもロシア国内では帝政時代からユダヤ人排斥の風潮が根強く、多くのユダヤ人が逮捕・粛清されたスターリン時代を経て、1960年代になってもソ連社会では公然たるユダヤ人差別がはびこっていた。エフトゥシェンコの詩は過去を扱うようにみせつつ、実はアクチュアルな政治的意味を孕んでいたのである。いくら「雪解け」の時代とはいえ、国家公認の作曲家ショスタコーヴィチが、体制側から忌避されそうな問題の詩篇にいち早く反応し、共感をこめて作曲した事実は何を物語るのだろうか。
ショスタコーヴィチは交響曲第十一番「1905年」を十月革命40周年に捧げ、次の第十二番ではレーニンを念頭において作曲し「1917年」と題するなど、社会主義国家に従順な(むしろ迎合した)作曲家であることを内外に示した(真意はどうあれ、少なくとも表向きには)のであるが、この十三番では一転して現体制に異を唱え、牙を剥く「危険な」芸術家の相貌をあらわにした。ソ連当局がこの交響曲を大いに問題視し、レコード化や楽譜の出版を棚上げするとともに、実演もほとんど許可しなかったのは、けだし当然至極な反応といえよう。
突如われわれの前に現れたこのディスクは、ソ連録音をわが国で独占的に発売していた「新世界」ではなく、奇妙なことに「フィリップス」レーベルから登場した(原盤はアメリカの Everest レーベル)。一聴してみれば、これが正規音源ではないことは明らかだ。モスクワで催された演奏会のラジオ放送をエアチェックした私的録音だろう、まるで戦時中のフルトヴェングラー演奏さながらの貧弱な音質しかなく、そこに無理やりステレオ化を施した代物。推察するに、何者かの手でこっそりソ連国外に持ち出され、当局はもちろん、作曲家本人も演奏家たちも与り知らぬまま発売された、一種の「海賊盤」なのだろう。1965年11月20日の演奏会実況と明記されているが、正しくは同年9月、あるいは63年2月のライヴともいわれている。
このような経緯から、何とも劣悪そのものの録音ではあるのだが、そこから聴こえてくる音楽は秀逸である。1962年の初演と同一メンバー(コンドラシン指揮、モスクワ・フィル、グロマツキー独唱)による、生々しくも壮絶な演奏なのだ。小生は訳詞を必死に辿りながら、何度も繰り返し聴いた。凄い、凄すぎる音楽だ…。
(つづく)