結論から先に言ってしまうと、ヴィッキ・ウルフ女史の「渦のなかで踊る」は、20世紀舞踊史にイダ・ルビンシュテインを位置づけるうえで、あまり参考にならない書物だった。独自の視点や新鮮な切り口に欠けているし、同時代者の評言を額面どおりに受け入れる姿勢はあまりにナイーヴ、というか歴史家的な批判精神が欠如しているといわざるを得ない。ルビンシュテインをめぐるエピソード集といったところか。
とはいえ、150ページほどのハンディな書物ゆえ、ルビンシュテインとその時代を手っ取り早く把握したいという人には役に立つ参考書かもしれない。彼女を取り巻くディアギレフ、ニジンスキー、ロメイン・ブルックス、ダンヌンツィオといった人々についても、彼女との関わりがわかりやすく記述されているので、ちょっとしたエッセイを書くための種本としてはお奨めである。
巻末の Chronology は手際良く整理されていて、それなりに有用。せっかくなので、これに基づいてルビンシュテインの主演作品をざっとさらってみよう。
1908
アンティゴネ 作=ソフォクレス 美=バクスト
1908 *
サロメ 作=ワイルド 曲=グラズノフ 振=フォーキン 美=バクスト
1909 *
クレオパトラ 曲=アレンスキーほか 振=フォーキン 美=バクスト
1910 *
シェエラザード 曲=R=コルサコフ、振=フォーキン 美=バクスト
1911 *
聖セバスティアヌスの殉教
作=ダンヌンツィオ 曲=ドビュッシー 振=フォーキン 美=バクスト
1912
スパルタのヘレネ 作=ヴェルハーレン 美=バクスト
1913 *
ラ・ピザネル(かぐわしき死) 作=ダンヌンツィオ 曲=ピッツェッティ
振=フォーキン 美=バクスト 演出=メイエルホリド(!)
1917
フェードル 作=ラシーヌ 美=バクスト
1920 *
アントワーヌとクレオパトル 作=ジード 曲=フローラン・シュミット
1922 *
うろたえたアルテミス 曲=ポール・パレー 振=グェッラ 美=バクスト
1923
椿姫 作=デュマ 美=ベヌア
1925
白痴 作=ドストエフスキー 脚色=ビアンストック、ノジエール 美=ベヌア
1926 *
ファエドラ 作=ダンヌンツィオ 曲=オネゲル 美=バクスト
1926 *
オルフェ 曲=ロジェ=デュカス 美=ゴロヴィン
1927 *
巖の后妃 作=ブーエリエ 曲=オネゲル 美=ベヌア
1928
アモルとプシュケの結婚 曲=オネゲル(バッハによる)
振=ニジンスカ 美=ベヌア
1928
ラ・ビアン=エメ 曲=ミヨー(シューベルト、リストによる)
振=ニジンスカ 美=ベヌア
1928 *
ボレロ 曲=ラヴェル 振=ニジンスカ 美=ベヌア
1928 *
妖精のくちづけ 曲=ストラヴィンスキー(チャイコフスキーによる)
振=ニジンスカ 美=ベヌア
1928 *
夜想曲 曲=ニコライ・チェレプニン(ボロディンによる)
1928
ダヴィデ 曲=ソーゲ 振=マシーン 美=ベヌア
1929
アルチーナの魔法 曲=オーリック 振=マシーン 美=ベヌア
1929 *
ラ・ヴァルス 曲=ラヴェル 振=ニジンスカ 美=ベヌア
1931 *
アンフィオン 作=ヴァレリー 曲=オネゲル 振=マシーン 美=ベヌア
1934 *
ペルセフォーヌ 作=ジード 曲=ストラヴィンスキー
振=フォーキン 美=ホセ=マリア・セルト
1934 *
ディアーヌ・ド・ポワティエ 曲=イベール 振=フォーキン 美=ベヌア
1934 *
セミラミス 作=ヴァレリー 曲=オネゲル 振=フォーキン 美=ヤコヴレフ
1938 *
火刑台のジャンヌ・ダルク 作=クローデル 曲=オネゲル
いやはや、気が遠くなってきた。なにしろ台本作者としてダンヌンツィオ、ヴァレリー、ジード、クローデルが名を連ねるのだから。ディアギレフのバレエ・リュス時代の「クレオパトラ」「シェエラザード」を例外として、すべてが彼女の出資によるプロデュース公演だというのも恐れ入る。
ほとんどの作品が彼女の委嘱で書かれたというのも凄いことだ。これは先日取り上げた指揮者パウル・ザッハーの果たした役割に匹敵しよう。ルビンシュテインの最後の委嘱・主演作品であるオネゲルの劇的カンタータ「火刑台のジャンヌ・ダルク」はスイスのバーゼルで初演されたが、そのとき指揮を受け持ったのがザッハーその人であったというのも出来過ぎた偶然である。
ちなみに、作品名にアステリスク(*)を付したのは、その付随音楽がCDで聴けることを意味する。