1970年以降もパウル・ザッハーは新作の委嘱をぬかりなく行い、バーゼルとチューリヒのオーケストラを解散してからも、客演指揮者として各地の管弦楽団を振り続けた。80年代にはパウル・ザッハー財団を設立し、ストラヴィンスキーの手書き楽譜などの収集に努めたほか、75歳で40も年下の愛人を孕ませるなど(このあたりは最近手に入れた「Symphony of Dreams」という本に詳しい!)、常人離れした華々しい活躍を繰り広げた。そして、妻にも二人の愛人にも先立たれたあと、1999年5月26日、93歳で長逝した。
わが国では来日公演のあと、ザッハーの名を聞くことは絶えてなくなった。二度と来日することなく、日本の作曲家への新作依頼もそれきりだった。録音嫌いの彼には新譜レコードの話題も乏しかったから(武満の「ユーカリプス」も別人が振って録音した)、どうにも取り沙汰されようがなかったのであろう。
ザッハーの名誉のため忘れずに附言しておくと、彼がわずかに残したディスクは決して悪いものではなかった。自分が委嘱した曲ばかり集めた二枚組LP(マルタン、マルティヌー、バルトーク、オネゲル、ストラヴィンスキー、ヘンツェ)はなかなかに秀逸。オネゲルは問題の第二交響曲なのだが、改めて聴いてみると、それなりの出来ではないか。ドラマティックな強調をあえて避け、純音楽的に仕上げようとしたことがわかる(小生の好みではないが)。CDではオネゲルばかり振った一枚(第三交響曲、歓喜の歌、勝利のオラース)が、心のこもった秀演である。
小生が久しぶりにザッハーの名を思い出したのは、ピエール・ブーレーズが優秀な学生オケ「マーラー・ユーゲント・オーケストラ」を率いて2003年4月に来日した際のことである。
その日の演目のほぼ半分、バルトークの「ディヴェルティメント」、武満の「ユーカリプス」、ブーレーズの「メサジェスキス」と続く三曲は、ことごとくザッハーゆかりの曲だったのである(自作曲はザッハーの70歳を祝う誕生日プレゼント)。当日のチラシやプログラムには明言されていなかったけれど、これが四年前に死んだ大先達へのブーレーズからのオマージュであることは明らかだろう。さもなくば、ブーレーズがタケミツを振るなど、とうてい考えられない。
久しぶりに生で聴いた「ユーカリプス」(小生はニコレとホリガー夫妻による再演を聴いている)だったが、ヴォルフガング・シュルツ(Fl)、フランソワ・ルルー(Ob)、吉野直子(H)の三人衆はよく健闘していたと思う。吉野のハープはホリガーの奥さんよりも明らかに上である。
そしてザッハーの生誕百年にあたる今年。彼の業績を称える連続演奏会がもうすぐ東京である(8月26、29日、サントリーホール)。
バルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」も、ストラヴィンスキーの「バーゼル協奏曲」も、ルトスワフスキの「チェイン」も、そしてもちろん、武満の「ユーカリプス」も演奏される。これはもう、何をさておいても出かけずにはいられまいて。