ザッハーとチューリヒ・コレギウム・ムジクムの演奏会で、小生が密かに期待したのはこの日の棹尾を飾るオネゲルの第二交響曲だった。
1936年にザッハーから弦楽オーケストラ用に依頼されながら、諸般の事情で作曲がのびのびになり、1941年10月になってようやく仕上がったというこの曲。結果的に、ドイツ軍に蹂躙されたパリで過ごすオネゲルの追いつめられた心境をありありと描き出すこととなった。
実際、この曲はひたすら重く、陰鬱である。容赦無く襲いかかる第一楽章の峻厳なアレグロ。暗澹として「出口なし」といった趣の緩徐楽章。第三楽章は凄まじい葛藤を思わせる激越なプレスト。最後の最後になってトランペットが登場して、一縷の希望と来るべき勝利を暗示して感動的に曲をしめくくる。昔も今も、小生が最も愛する「戦時音楽」の一つである。
もともとバーゼル室内管弦楽団で演奏される手筈だったのが、戦時中ゆえ楽譜が届くのが遅れ、ザッハーのもう一つの手兵であるチューリヒ・コレギウム・ムジクムの定期演奏会で世界初演が行われた(1942年5月18日)。それから28年後の東京で初演者たちが取り組む演奏に、オーセンティックな名演が望まれるのは当然だろう。
ところがこれがとんだ期待外れだったのである。
ドラマティックなところがまるでない、あまりにも淡々とした演奏に、肩透かしをくらった思いがした。くだんのメモ帖には「冷静で分析的、正確で透徹した演奏」なんて書いてあるが、これは褒めすぎ。実際には、あまりにも盛り上がりを欠く演奏に、「えっ、これが初演者の解釈なの?」と訝しい思いとともに、「この曲はこんなはずじゃない」という憤りに似た感情がこみ上げてきた。
実際に会場にいたわけではないので断言はできないけれど、この曲に関する限り、ザッハーはとうていレコードで聴くミュンシュ(熱い魂の燃焼といいたい凄演)の敵ではない。アンセルメ(クールで容赦ない感じ)やパイヤール(ザッハリヒで鋭い)の演奏にすら、遠く及ばないのではないか。
やっぱり、ザッハーは指揮者としての才能に問題のある「芸術好きのお大尽」にすぎないのではないのか。そうした拭えない疑惑を残したまま、彼とそのオーケストラは日本を去っていったのである。
(つづく)