武満徹はこの年(1970年)の10月、ちょうど40歳を迎えている。すでにその国際的な評価は揺るぎないものとなりつつあった。
ニューヨーク・フィル創立125周年記念の委嘱作「ノヴェンバー・ステップス」は、三年前の1967年に小澤征爾の指揮で初演されセンセーションを呼んでいた。70年の大阪万博では「鉄鋼館」の音楽監督を委ねられ、新作「クロッシング」を仕上げたところだった。翌71年にはシカゴのラヴィニア音楽祭からの注文作品「カシオペア」が初演されることになっている。
そうした時期の武満にとっても、パウル・ザッハーからじきじきの作曲依頼はちょっとした「事件」だったのではないか。何しろ、バルトーク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、オネゲルの系譜に自らも加わることになるのである。格別な感慨がなかったといえば嘘になろう。
とはいえ、武満がいつものマイペースを崩すことはなかった。
約束の期日までに楽譜が届かないのに業を煮やしたザッハーが、知人を介して問い合わせると、彼はこう応酬したという。「そっと静かにしておいてもらって良い曲を書くか、あるいはまるきり作曲しないか、そのどちらかだ」。これにはさすがのザッハーも黙って待つしかなかった。
武満がザッハーの依頼を快諾した最大の理由は、スイスの誇る二人の名手、フルートのオーレル・ニコレとオーボエのハインツ・ホリガーを独奏者に迎えるという前提条件が受け入れられたためと推察される。
この二人はバロック以降の幅広いレパートリーを擁するとともに、現代曲の演奏にも果敢に取り組むことでも知られていた(ホリガーは自ら作曲家でもある)。彼らは楽器の限界を超えた新しい演奏技術の開拓にも熱心で、ニコレは口でフルートを吹きながら鼻から空気を補給する「循環呼吸法」を発明し、ブレスレス演奏を可能にしたし、ホリガーは一つのオーボエから二つ以上の音を同時に鳴らす「重音奏法」(ビャーという奇妙な音がする)をさかんに試みていた。
この二人と、それからホリガーの奥さんのハープ奏者、ウルスラ・ホリガー(たいへんな美人だが腕前はまあまあ)を加えた三人を独奏者とし、ザッハーの室内楽団のための「トリプル・コンチェルト」を書く。これが武満に与えられた条件だった。三年前の「ノヴェンバー・ステップス」が鶴田錦史(琵琶)、横山勝也(尺八)という名人抜きにはありえない(演奏不可能)のと同様、今度の新曲もこのスイスの三人組の存在があって初めて実現するたぐいの音楽になるはずだ。
(つづく)