訪れた至福の時
喧騒と激動の一場が不意に終わり、舞台に静寂が戻ってくる(第一幕第二場)。
そしていよいよヴァネッサの登場だ。
男物のカーキ色のスーツとズボン、黒い革ブーツ。180センチはあろうか、堂々たる長身の偉丈夫。なんて格好いいんだろう、というのが第一印象だ。老獪な魔術師という感じは微塵もない。しゃきっとした、活動的なプロスペローである。ヴァネッサは63歳という実年齢よりもずっと若々しく、老人にも老女にもみえない。
あの懐かしい、低めで少しハスキーな声が朗々と響きわたる。小生のいるかぶりつきからは、ほんの一、二メートルという距離。ああ、とうとうこんなに近くまでやって来たんだ、という感慨で、もう胸がいっぱいになる。
傍らのミランダは清純可憐、いかにも世間知らずという風情。何しろミランダは自分と父親以外、人間というものをまだ見たことがないのである。
プロスペローはこの娘に向かって、かつて自分の受けた非道な仕打ちについて、千載一遇の仇討の機が熟したことについて、縷々語って聴かせる。このあたり、小生はただただ陶然として聴き入るのみ。正直言って、シェイクスピアの英語は、漠然と耳を傾けただけでは一割位しか理解できない。
やがてエアリアル再登場。従順にして忠実な部下として、プロスペローの言葉にいちいち機敏に反応する。ここはさながら、女社長と有能な秘書の会話といった趣か。
お次はキャリバンの番だ。これもプロスペローの家来。うわあ、こいつは汚らしいぞ。泥だらけの怪物、汚濁にまみれた異形の者。その負の存在感がなんとも凄まじい。立居振舞のすべてが粗野で下品で、ふてぶてしく主人に悪態のつき放題、揚句の果ては(別の場面でだが)ところ構わずジャーッと立小便までやらかす。
それでいて、このキャリバンはどうにも憎めない奴だ。名状しがたい悲しみや怒り、ペーソスと人間味がそこはかとなく漂うのである。