1970年の手帖から
数年前、埼玉の実家を片付けていて、古いメモ帖が何冊も出てきた。1968年から三年間ほどラジオやTVで見聞きした音楽や映画を折に触れて記録したものだ。そのうちの一冊に、1970年5月2日の日付で「裸足のイサドラ」の筋書が克明に記されているのを発見した。17歳の少年の書きつけた拙い文章ではあるが、以下にそのままを再録してみる。適宜改行を施し、「そして」の頻出など、わずかな修辞を改めたが、ほとんど原文どおりである。
ISADORA 裸足のイサドラ
丸の内松竹 2:15~
彼女は何よりも自由を求めた。そのためにはどんな犠牲をも厭わなかった。イサドラはまず窮屈な衣裳を捨てた。従来のダンスのあらゆる形式を捨てた。そして、ただ簡素なテュニックだけを身にまとい、何の装飾もない舞台で、自由奔放な踊りをみせたのだった。彼女はそのうえ結婚までも、その束縛性ゆえにきっぱりと捨て去った。
すべてを投げ捨ててしまって、いったい彼女に何が残ったのか。
物語はすでに老いを隠せないイサドラが半生の回顧録をまとめるべく、ニースで秘書を相手に口述を進める場面から始まる。
故国アメリカからイギリスに渡った若いイサドラは、大英博物館のギリシア彫刻群エルギン・マーブルに異様な感動を覚え、そのスタイルこそ自分の衣裳にぴったりであることを悟った。
彼女はベートーヴェンの「第七」、あるいはブラームスの「第一」交響曲に合わせて、その肉体をほとんど投げ出さんばかりに踊りまくる。情熱的なそのダンスは観る者を興奮の坩堝に投げ込まずにはおかなかった。
各地で名声を博しつつあるイサドラに、一人の舞台芸術家が近づいた。純粋な愛を求めていた彼女は、このゴードン・クレイグと烈しい恋に堕ちてゆく。しかし、何よりも束縛を嫌ったイサドラは。やがて彼の子を身ごもっても、頑なに結婚を拒み続けたのだった。そして娘の誕生。そうこうするうちに、いつしかクレイグの心は彼女から離れていった。
これほど若く美しく純粋な彼女が、パリス・シンガーのような中年の富豪に惹かれ、深い仲となっていくのはおかしいようだが、彼女の移り気な性格と、自分を燃え上がらせる愛の炎を熱望したことに、その原因を帰すべきだろう。金銭に不自由のない生活のなかで、彼女はかねてからの願いであった、貧しい子らのためのダンス学校を創設した。「子供たちにダンスを教えることだけが生き甲斐だ」と回想録で述べているように、大勢の子供たちに囲まれたイサドラの何と幸福そうなことか。しかし、このような生活も長くは続かない。所詮シンガーと彼女とは別世界の人間であった。イサドラはついにシンガーの娘を出産。しかし、ここでも頑として結婚を拒む。
このとき、誰もが予想しなかった恐ろしい事件が起こった。
彼女の子供たちを乗せた自動車がセーヌ川に転落し、二人は幼い一生を終えてしまう。取り返しのつかない出来事によって、かけがえのない命を一瞬にして奪われ、イサドラは生きる希望を失ってしまった。そして、回想録を執筆する今でもなお、彼女は一人涙に暮れるのだった。
救いが現れなければならなかった。思いがけなく、それは革命直後のソヴィエトからやって来た。彼女を舞踊の指導者として招こうというのである。この新しい国でこそ、自分の踊りは理解される、と直観したイサドラは、悲しみに沈む心を癒すため、異国へと向かう。
当時のソヴィエトは非常な貧困のなかにあったが、人々はみな希望に満ちた眼差しをしていた。彼女は真紅の衣裳をつけ、大勢の観衆の前でボロディンの交響曲第二番を踊り始めた。しかし、どうしたわけか照明装置の故障で舞台は暗転、踊りは中断された。そのときだった、観客の一人が「カリンカ」を唄いだす。みるみるうちに合唱の輪が広がり、数人の兵士が舞台に駆け上がり、カンテラを掲げるイサドラを中心に輪をつくり、熱狂的に踊り出したのだ。「イサドラ! イサドラ!」の大合唱のなか、彼女の眼は歓喜に輝く。
ソヴィエトでも彼女は子供たちにダンスを教えた。そうした生活のなかで、多くの若い芸術家とも出会ったが、とりわけセルゲイ・アレクサンドロヴィチ・エセーニン──美しい眼をした革命詩人で、イサドラの熱烈な崇拝者──に彼女は強く惹きつけられていった。エセーニンの狂おしいまでの激情の炎は、イサドラを烈しく燃え上がらせた。彼はものすごい剣幕で、彼女の思い出の写真を踏みにじってしまう。亡き子供たちの写真だけは…という彼女の願いも、セルゲイの前では全く無駄だった。二人は気違いのように部屋じゅうを滅茶苦茶に荒らしまわり、強く激しく抱き合うのだった。
エセーニンを伴って、イサドラはついに故国アメリカへと渡った。しかし、二人を迎えた大衆の反応は決して好意的なものではなかった。険悪な雰囲気に耐えかねて、詩人は記者会見の席上で空砲のピストルを連射して顰蹙を買う。イサドラ曰く、「私たちは芸術家です。芸術家はみな革命家なのです」。
事件はボストンで起こった。彼女は「解放の踊り」と題して赤い布を振りつつ、チャイコフスキーのスラヴ行進曲によるダンスを力強く踊り始めた。観客のどよめきが高まってゆく。
怒号と嘲笑のなか、踊りは最高潮に達し、彼女はついに身にまとっていた衣裳をかなぐり捨て、上半身裸になって激情を露わにしようとした。劇場は大混乱となり、主催者は慌てて彼女の裸身をおし隠す。すると彼女は叫ぶ、「私は美しい、私は自由だ。それがなぜ悪いのか!」「アメリカは革命を忘れてしまったのか!」と。
そして、場面は最初と同じニース。
すべてをかなぐり捨てた彼女に、はたして何が残ったのか。イサドラはその自由奔放な生き方ゆえに、かえってすべてを失ってしまったのだ。老いの影が迫ってくるにつれ、そのことは次第にはっきりしてきた。彼女にはもう、かつてのような若さも美しさもみられない。彼女を激情的に愛した男たちは、みな離れていってしまった。愛の炎で燃え上がらせるような男は誰一人現れない。イサドラは孤独である。男漁りを始めるようになった。そして今、彼女はどこかエセーニンの風貌を思わせる美男、通称ブガッティに夢中なのだ。
数日後の夕方、とあるパーティでイサドラはブガッティと初めて踊った。やがて彼のスポーツ・カーに乗ってドライヴに出ようとする二人。イサドラはその長いスカーフを風になびかせながら、みなに別れを告げる。そして再び座席に坐ろうとしたそのときだった。スカーフの端が走り出す車の後輪に巻き込まれ、彼女の首をきつく締めつけたのだ。
これがイサドラ・ダンカンの最期だった。彼女は49歳になったばかりだった…。
のけぞったままこと切れたイサドラ。キャメラはゆっくりと、遠くの海へと向けられる。
パーティのざわめきが次第に消えていく。さざなみが繰り返す。いつまでも、いつまでも。
海から生まれたアフロディテは、こうして海へと戻っていったのだ…。