毎年七月になると林美雄さんのことを思い出す。1970年代にTBSラジオの深夜番組「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティを務めていたアナウンサーだ。20代の前半、岐路にさしかかって思い迷っていた小生が、その頃もっとも強く影響された人物がこの林さんだった。人生が変わった、といっても言い過ぎではない。
実際、彼がDJを手掛けていた番組はひどく風変わりだった。まず、かかる音楽が他所と全然違う。ヒット曲は取り上げない。誰も知らないような無名の新人たちの歌。それらを飽くことなく毎回しつこくかけ続けるのだ(石川セリ、荒井由実、中山ラビ、能登道子などなど)。
映画の話題ももっぱら邦画のみ、それも小津安二郎、黒澤明ではなく、藤田敏八、神代辰巳、田中登、あるいは東陽一、黒木和雄といった日活、ATGを根城にしていた監督たちがひたすら取り沙汰された。どこから手に入れてきたのか、レコードにもなっていないような邦画の主題歌や挿入曲も頻繁に流されていた。
そればかりではない。深夜三時から五時まで、スポンサーなし、といういささかアナーキーな時間枠のせいもあって、政治的にも人間的にもリベラルな人々がスタジオに招かれ、マイクの前で持論を述べることもままあった(小田実、小中陽太郎、野坂昭如などなど)。各地の公害反対運動もたびたび紹介された。林美雄の番組はまぎれもなく気骨ある「硬派」を標榜していたのだ。
かと思えば、「苦労多かるローカルニュース」と題し、各地で起こった出来事と称して、滑稽で馬鹿馬鹿しいネタを、ニュースアナの口調で大真面目に読み上げるという、おふざけコーナーにもずいぶん力を入れていた。自ら「みどりぶた」と名乗り、奇声を発することも厭わなかった。林美雄はパロディや下らぬ冗談も大好きな「軟派」人間でもあったのである。
なんと奇妙な番組だろう。そう思いながらも、毎週木曜の深夜(というか金曜早朝)には必ずダイアルを合わせてしまう。林パック(あるいは「みどりぶたパック」)には、もう一つ別の世界を垣間見るような不思議なワクワク感があり、聴き手はいつしかその魔法の力に抗し切れなくなってしまう。
1974年8月をもって「林パック」は(というか三時からの「パック第二部」全体が)突然打ち切りとなった。番組編成上の都合で、ということだったが、この深夜の解放区のあまりにも唐突な終焉を惜しんだのは小生だけではなかった。数人の熱心なリスナーが発起人となって、番組の存続を訴える署名運動が澎湃として巻き起こったのである。「パック林美雄をやめさせるな!聴取者連合」、略して「パ聴連」なるグループがそれである。ハッと気づいたら、小生もその輪のなかにいた。
いちどきに数十人の友人ができ、毎日のように会っては酒を酌み交わすという日々が始まった。それからの数年間は、三十年経った時点で思い返してみても、胸騒ぎ心ときめく祝祭のような毎日だった。
そうした日々を過ごすなかで、続けてきたイタリア・ルネサンスの勉強を放りだし、大学を辞め、親と大喧嘩して家を飛び出しても、少しも惜しいという気がしなかった。五百年前の異国の美術よりも、「今ここにある」生きた音楽・映画・芝居のほうが何十倍も面白いか知れなかった。
出自も年齢も性別もまちまちな友人たち。だが、同じ時刻に同じ番組を聴いていたという共感は、あらゆる差異を無にするほど強烈だった。親兄弟よりも身近な、血を分けた仲間たち、という感じがしたのである。
それから幾星霜。それぞれがそれぞれの人生を歩むのに忙しく、さすがに昔の仲間たちとも会う機会がほとんどなくなった。
そして四年前、その日がやってきた。
2002年7月13日。林美雄さんが突然亡くなったのだ。
明日は林さんの命日である。