全席完売につき、立見もやむなし!地下鉄を乗り継いで、都心のトッテナム・コート・ロード駅下車。馴染の定宿に着いたのが夕刻六時過ぎ。旅装を解くのももどかしく、すぐさま街へと繰り出す。「タイム・アウト」誌によれば、今夜もENO(イングリッシュ・ナショナル・オペラ)で「蝶々夫人」があるそうな。開演は七時半。走って行けば、まだ間に合いそうだ。
ヨーロッパの都市で素晴らしいのは、オペラが完全に日常生活に溶け込んでいること。まるで映画館に行くような気分で、「今夜はオペラでも観て帰ろうか」となる。当日券でたいていの演目が観られるのだ。料金も至極リーズナブル。大枚はたいて半年も前から前売券を買わされるどこかの国とは大違いだ。
ENOはどの演目も英語で上演するユニークなオペラハウス。古色蒼然たる建物(往時のミュージックホール、コリーシアム)とは裏腹に、すこぶる斬新な新演出を打ち出すことでも有名だ。この「蝶々夫人」も、舞台装置の障子を巧みに動かす演出がとても効果的。名の通った歌手は一人もいないが、芸達者揃いなので存分に堪能。大甘のメロドラマが崇高な悲劇と感じられた。旅の疲れもすっかり吹き飛ぶ。
夜更けにホテルへ戻ると、ベッドで横になりながら、「タイム・アウト」誌と首っ引きで、このあと二週間分のスケジュールをもう一度組み直す。くだんの「テンペスト」は、来週やって来る友人の到着を待って、5月23日夜に観に行くのが好都合と判明した。興奮とジェットラグとでなかなか眠くならない。
翌朝は朝食もそこそこに外出。まずはテムズ河畔までずんずん歩いて、グローブ座の切符売場へ。「テンペスト」のポスターがそこかしこに貼られている。
懼れていたとおり、ヴァネッサ・レッドグレーヴの出演がたいへんな前評判で、5月分の公演はどの日もすでに全席完売だという。う~ん、ここまで来たのに残念無念…。窓口の男が「もし立見でよければ切符を売る」と声をかけてきた。仕方がない、それでもいいからと、23日の分を二枚買い求める。
すると彼がおかしなことを言う。「あのな、ほんとうを言うと、これがthe best seats なんだ」。立見席がいちばん良い席だとは、一体全体どういうことだ。
(次回に続く)