岩城宏之のLP盤「兵士の物語」は、この優れた音楽劇を日本の土壌に根づかせようとする果敢な試みだった。これはほぼ同時期に、日本フィルの定期で小澤征爾が振った演奏会形式上演(語りは水島 弘の独演)とともに、パイオニア的な実践として永く銘記さるべきだろう。
観世栄夫の手になる脚色台本は、ラミュのオリジナルに一字一句きわめて忠実である。マルケヴィッチ盤で(おそらく)コクトーが行ったような自在な加筆改変は一切なされてはいない。兵士の名も元どおり「ジョセフ」のままだ。
こうした生真面目な原作遵守の姿勢は、岩城率いるアンサンブルの杓子定規なまでの几帳面さにも相通ずるものではないか。彼らは最初から自由奔放に羽ばたくことはできなかったのである。
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それからちょうど20年後の1992年、ようやく二つ目の日本語版「兵士の物語」が出現する。ときすでにデジタル録音、CD全盛の時代に入っていた。この新世代の音盤を紹介して、いつまでも終わらないこのエッセイを締めくくることとしよう。
ストラヴィンスキー 兵士の物語指揮/斎藤ネコ
語り/
巻上公一=兵士
デーモン小暮閣下=悪魔
戸川 純=語り手・王女
クラリネット/梅津和時
ファゴット/小山 清
コルネット/大倉滋夫
トロンボーン/村田陽一
パーカッション/高田みどり
ヴァイオリン/桑野 聖
コントラバス/吉野弘志
シンセサイザー/石井AQ
効果音ヴァイオリン/斎藤ネコ
台本/加藤 直(Ch. F. ラミューズ原作)
録音/1992年1月20-22日(秋川キララ・ホール) 6月8-9日(TAMCOスタジオ) 6月23日(東芝EMI・第3スタジオ)
はじめてのクラシック 17
東芝EMI TOCE-6955 1992年9月30日発売 3,000-
帯のコピーに「ポップな、あまりにポップな、ストラヴィンスキー。」とある。
この惹句はストラヴィンスキーがもともとポップな存在なのだ、と読めなくもないが、やはりこれは当CDの演奏それ自体の志向性を指しているのであろう。
キャスティングされた戸川純(元ゲルニカ/ヤプーズ)、巻上公一(ヒカシュー)、デーモン小暮(聖飢魔Ⅱ)の顔ぶれから、このディスクが目指すところがおおよそ想像できよう。朗読の三人衆がいずれもロック・ミュージシャン。もちろん音感やリズム感は折り紙つき。これは80年代に出現した「日本のロック」第三世代が創り上げた「兵士の物語」なのである。
悪魔役を「ホンモノの」悪魔が務めるという思いつきは、ベタではあるがやはり秀逸。要するに、いつものデーモン小暮のまんまなのだが、水を得た魚のように易々と、余裕たっぷりに演じてみせる。
巻上の兵士はやや一本調子ながら、生真面目で直情径行な若者を彷彿とさせる。
戸川純の「語り手」はミス・キャストかと思いきや、低めの声で淡々としとやかな語り口。「玉姫様」のエクセントリックなイメージとは大違いだ。
加藤直の台本は大筋においてラミュのオリジナルを踏襲するが、随所でアドリブ的な遊びや逸脱にも事欠かない。これはかのコクトー=マルケヴィッチ盤の精神と方法論を受け継いだものだ。(なお、全曲の前後には全く独自のプロローグとエピローグがつくが、これはいささか蛇足だったかも。)
指揮の斎藤ネコはクラシック畑の人ではなく、南こうせつや谷山浩子のバックやアレンジを手掛けているそうだが、ここでの音楽づくりはなかなかに秀逸。リズム感だって悪くない。
アンサンブルはクラシック、ジャズ、ポップス畑からの混成チーム。というより、ジャンルの区分を無効にするような奔放な演奏者ばかり抜擢している。
一人だけ例を挙げるなら、クラリネットの梅津和時は、「生活向上委員会」「ドクトル梅津バンド」を率いるフリージャズ界の偉才なのだが、ロック、ブルーズ、民謡など、他ジャンルのミュージシャンと「無差別に」共演している。このCD録音のあとも、日本初のクレズマー・バンド「ベツニ ナンモ クレズマー」を結成して、巻上公一とも共演することになる。
(…と、ここまで書いて、今ふと思い出した。そもそもこのCDのことは西荻窪に梅津さんのライヴを聴きにいったとき、たまたま置いてあった宣伝チラシで知り、発売日を待ちかまえるように購入したのだった…。)
つねづね思っているのだが、1992年の斎藤=巻上=デーモン=戸川盤「兵士の物語」は、20年前の岩城=観世兄弟盤が目指した「見果てぬ」夢──国籍をもたない「兵士」を極東の地に召喚し、自在に日本語で語らせるという夢──の、ひとつの実現形だったのではなかろうか。
同じキャストが演ずる「兵士の物語」を実際の舞台で観られたら、さぞかし面白かったろう。残念ながら、当時もそれ以降も、そうした機会はとうとうやってこなかった。
これを観るのが小生のひそかな夢だった。実は今でもまだ、その実現を待ち続けているのである。