(承前)
かくしてラミュはロシア民話「脱走兵と悪魔」を近代化し、脱ロシア化することで、「地球上どこででも起こりうる」、普遍的な物語へと創り変えることに成功した。
それではこの「兵士の物語」に、ストラヴィンスキーはどのような曲を付けたのか。
驚いたことに、彼の音楽もまた、ラミュの台本と同じ方向性を示していたのである。
リムスキー=コルサコフ晩年の愛弟子にして、ロシア国民楽派の正当な後継者であるストラヴィンスキー。バレエ・リュスの座付き作曲家として、彼は「火の鳥」(1910)と「ペトルーシュカ」(1911)で、ロシア民謡の旋律をふんだんに用いながら、師譲りの絢爛たる管弦楽法を駆使してみせ、続く「春の祭典」(1913)では、そこから一歩を踏み出しつつ、題材的にはロシア古来の習俗からインスピレーションを得ていた。
それからわずか数年。1918年のストラヴィンスキーは、別人のように変貌を遂げていたのである。
「兵士の物語」の音楽には、明瞭に「ロシア的」と感じさせるところがほとんどない。スラヴ的な旋律はすっかり影を潜め、ヴァイオリンの主題にかすかにその余韻を響かせるのみ。それどころか、ロシアとは無縁な音楽スタイル、それも複数のスタイルが同時並存的に用いられているのだ。
その端的な例としては、後半の「第二部」で兵士が悪魔からヴァイオリンを取り戻し、その楽の音で皇女の病を癒し、二人してデュエットを踊る…という場面に付けられた音楽が挙げられよう。
ストラヴィンスキーはこの場面で、タンゴ(アルゼンチン)、ワルツ(オーストリア)、ラグタイム(アメリカ)を次々に繰り出して、兵士と皇女のカップルに踊らせている。チャイコフスキーのバレエには、本筋とは関係なく各国の舞踊が披露される「ディヴェルティスマン」がつきものだが、ストラヴィンスキーの楽曲は、明らかにこの流儀を踏まえた一種のパロディとして発想された。
メヌエットやポロネーズといった宮廷舞踊ならともかく、お伽話の姫君がアルゼンチン・タンゴやラグタイムで踊り出す、という趣向は、すこぶる当世風かつインターナショナル、あえていえば荒唐無稽にして無国籍的である。
「兵士の物語」でストラヴィンスキーが選んだ特異な楽器編成についても一言。
ヴァイオリン、クラリネット、バスーン、トランペット、トロンボーン、コントラバス、そして打楽器という奇妙な七人編成は、彼のそれまでの作品にはもちろん、音楽史的にも前例のないものである。これについては、戦時下で大編成のオーケストラでの上演が望めないため、苦肉の策として小人数のバンド形態を考えついた、としばしば説明されるが、これは事実の半面しか言い当てていないような気がする。
この七人編成はアメリカで勃興したデキシーランド・ジャズ・バンドを模したものとする説も、いささか眉唾ものではないか。
1917-18年の時点で、ストラヴィンスキーがアメリカのラグタイムに関心を抱いたことは確かだし、そのきっかけが1916年バレエ・リュスのアメリカ巡業に同行した指揮者エルネスト・アンセルメ(彼は旅先でガーシュウィンやアーヴィング・バーリンと会っている)がスイスに持ち帰った情報とピアノ譜にあったことも事実であるが、はたしてそれだけの材料からストラヴィンスキーがこの編成で作曲できたかどうか、大いに疑問である。
むしろ、彼の念頭にあったのは、彼がヨーロッパの諸都市のレストランで聴く機会のあった「ジプシー」楽団の編成(ヴァイオリン、コントラバス、ツィンバロムなど)や、それ以上に、東欧に広く流布していたユダヤ人の民衆音楽「クレズマー」の楽器編成(ヴァイオリン、クラリネット、コントラバスなど)だった可能性が高いのではないか。
ジャズ・バンド、「ジプシー」楽団、クレズマー・バンド。いずれが祖型であるにせよ、従来のクラシック音楽とはおよそ異質な出自と性格をもつ「軽音楽」に、ストラヴィンスキーが鋭い嗅覚をもって接近していったことは間違いない。
にもかかわらず、「兵士の物語」の音楽は既存のいかなる範疇にも収まらない。さまざまなジャンルやスタイルを参照・引用し、併置・混交させつつ、そのいずれとも異なるハイブリッドな音楽が生まれたのだ。
ロシア国籍を喪失し、スイスに寓居を構える作曲家が書いたのは、いかなる国籍にも帰属しない音楽だったのである。