今日は滅多にない特別な一日だった。そのことをぜひ書きたいので、「兵士の物語」の続きはお休みとしよう。
竹橋の東京国立近代美術館で、この13日から「生誕100年記念 吉原治良展」が開かれているが、これに関連して河﨑晃一さんが講演されるというので、ひどく蒸し暑いなか、いそいそと出掛けてみた。
河﨑晃一さんは、小生の盟友にして恩人ともいうべき人物だ。
4年前の2002年、芦屋の美術館に吉原治良旧蔵のロシア絵本が数十冊残されていると知らされて、早速コンタクトして調査を申し入れたら、そこの学芸員だった河﨑さんは快く許可して下さったばかりか、「これで展覧会ができないかなぁ、どうです、一緒にやりませんか?」と気さくに声をかけてくれた。
芦屋で実際に目にした87冊のロシア絵本コレクションは、溜息が出るほど素晴らしかった。だが、それにしてもなぜ、1930年代初頭に、芦屋の地で、吉原治良がロシア絵本を…と疑問が次々に頭をよぎったが、河﨑さんは「それに答えられる友人が一人いる。実は今日呼んであるので、これから一緒に夕飯を食べよう」と、兵庫県立美術館の平井章一さんを紹介して下さった。
吉原治良とその周辺を詳しく調査されている平井さんは、1930年代初め、吉原の年長の友人に小西謙三という画家がいて、ロシアに滞在して絵を学んできたこと、その小西の肝いりで吉原が『スイゾクカン』(1932)という絵本を出していることを縷々ご教示下さったのだ。
一昨年から昨年にかけて、芦屋市立美術博物館を皮切りに、東京都庭園美術館などを巡回した「幻のロシア絵本 1920‐30年代」展で、関西におけるロシア絵本受容の実態をほぼ解明できたのは、ひとえに河﨑さんとその同僚の横山幾子さん、そして兵庫の平井さんの努力のたまものである。小生が河﨑さんのことを「恩人」と呼ぶのはそのためだ。
日本における抽象絵画のパイオニアの一人で、50年代以降は「具体」グループの指導者として世界的に知られている吉原治良(1905‐1972)。その吉原にして、東京で本格的な回顧展が催されるのはこれが最初なのだという。かくいう小生もまとめて作品を観たことがない。ちょっと早めに竹橋に着いたので、講演の前に展示室をざっと一巡しておくことにした。
会場に入ってすぐ、初期の魚をモチーフにした作品のところで、「ロシア絵本」展でも大々的にフィーチャーした吉原の絵本『スイゾクカン』がちゃんとケースに入れて展示されているのが、懐かしいような嬉しいような気分。と、そこで、いきなり河﨑さんに声をかけられた。彼はつい最近、17年間も在籍した芦屋の美術館を去り、兵庫県立美術館に移られた。転職後お会いするのは今日が初めてだ。
挨拶のあと、せっかくなのでしばらく一緒に展示を観ることに。有益なコメントつきとあって、なんだかひどく得したみたいだ。「西欧のモノマネ」と揶揄されることすらある戦前の吉原作品だが、どうしてどうして、足の地に付いた誠実な仕事であることに感動を覚えた。この部分だけでも、今回の展覧会は必見である。
講演会は2時から。タイトルは「吉原治良~具体への道のり~」。
よく知られた戦後の「具体」時代はあえて避けて、20‐30年代の青年期から戦後すぐまでの、「知られざる」吉原に話題を絞ったのは正解だった。芦屋の美術館が遺族から託された資料写真をスライドで示しながら、戦前から晩年までの吉原の錯綜した歩みに、一貫する流れがあることを示唆する、みごとな講演だった。
講演が終わってふと振り返ると、後ろの座席で平井章一さんが微笑んでおられたのでビックリ。彼もこの春、永年勤めた兵庫の美術館を退き、新設予定の新国立美術館(六本木)に移られたのだという。あれだけ地元に根ざした調査研究をされてきた平井さんが、どうして関西を離れる決心をされたのか、ご事情は全くわからぬものの、新天地での今後のご活躍を心からお祈りする。関西ではできなかったことを、ぜひ実現していただきたい。
今日は期せずして「ロシア絵本」展関係の同窓会めいて、感慨ひとしおだった。