朝六時に家を出て名古屋を目指す。週末の新幹線は大阪までが激混みと聞かされたので、あえて「のぞみ」を避け「ひかり」の自由席を確保。それでも途中の浜松からの乗客の多くは立ち乗りとなった。
演奏会は午後なのだが、折角の遠征なので九時に現地入り。そのまま地下鉄の東山線に乗り換えて栄町へ。地下街の喫茶店「コンパル」で海老フライサンドと珈琲の朝食。ああ名古屋に来たのだと実感する。
十時きっかりに愛知芸術文化センター十階へ。ここ愛知県美術館ほかで開催中の国際芸術祭「あいち2025」(「あいちトリエンナーレ」)をちょっと覗いてみる。「灰と薔薇のあいまに」というテーマが掲げられ、「人間と環境とを分断する国家や領土といった視点を越えて、地質学的な時間軸から見える未来の展望を提示」する(芸術監督フール・アル・カシミ)とのことだが、未知の作家が大半を占める展示を呆然と眺めながら、美術館の十階と八階のすべての展示室を一時間半ほどかけて一巡。しかしながら胸に響く作品には出逢えなかった。もっと根気強く時間をかけ、他の展示会場にも足を運べば違ったのかもしれないが、老書生にはこれがもう限界。
芸術文化センターを地下二階まで降りて、期間限定のミュージアム・ショップで、帰りの車中で読むのにふさわしい美術書がないか物色。横浜のBankART1929でやった連続レクチャー『いかに戦争は描かれたか』(2017)を見つけてレジへ。さすがに疲労を覚えたので、この建物に隣接する広場「オアシス21」のカフェで喉を潤す。
そろそろ正午という頃合に再び地下鉄の東山線を使って、七つ目の中村公園駅まで移動。大鳥居のある豊国神社参道を公園方向へと歩くうち俄かに空腹を覚えたので、老夫婦がひっそり営む和食屋「かみ谷」で昼食。刺身と豚汁の古典的定食をいただく。安価でしかも旨い。
午後一時前、心配していた雨にも降られずに目指す中村公園に到着。この一帯は豊臣秀吉の生誕地とされ、敷地には豊国神社も建つが、今日の訪問の目的地はそこではなく、園内にある「中村文化小劇場ホール」で愛知音楽研究会が催すレクチャーコンサート&シンポジウム「日本と音楽 中部地方から考える」を聴講することにある。
一時半から六時半まで、五時間に及ぶ長丁場の催しであり、三つのレクチャーコンサートと二つのシンポジウムからなる大がかりで盛り沢山のイヴェントなので、委細をここに記すのはとても不可能だが、どれもがよく練り上げられ、傾聴に値する研究発表だったとのみ記しておこう。どんなにニッチな地域限定の事象でも、とことん調べると普遍的な問題に行きつく。これこそが歴史探索の醍醐味なのだ。
多彩なプログラムの白眉は、ちょうど中盤あたりで聴けた以下のレクチャーコンサートだ。はるばる訪れた目的もそこにある。
レクチャーコンサート②(15:55~16:25)
白石朝子
「遥かなる日本へのまなざし:ジル=マルシェックス初来日100周年・ラヴェル生誕150周年」
演奏/白石朝子(ピアノ)、土屋裕子(ピアノ)
曲目/
ラヴェル:《マ・メール・ロワ》より(連弾)
■ 眠りの森の美女のパヴァーヌ
■ おやゆび小僧
■ パゴダの女王レドロネット
ラヴェル(リュシアン・ガルバン編/連弾):
《子どもと魔法》より
■ 雨蛙の踊り、蜻蛉と蛾の踊り
■ 五時のフォックス・トロット
ラヴェル(アンリ・ジル=マルシェックス編):
《五時のフォックス・トロット 二手のための幻想曲》
このプログラムはラヴェル愛好家には垂涎の的だろう。なにしろ歌劇《子供と魔法》にまつわるピアノ編曲(いずれもラヴェル公認版)がまとめて聴ける。しかもジル=マルシェックス編曲版は1925年の初来日時に東京で世界初演(!)されたという代物。この時点でオペラそのものはまだパリ初演されていなかったのだから驚きである。それにしてもこの《幻想曲》は見るからに聴くからに演奏至難な編曲だ。ラヴェルの原曲にはないヴィルトゥオーゾ的な装飾音型が複雑に絡み合う。白石さんは堅実な技術で難所を切り抜けて天晴れ。
白石さんはフランスのピアニストで最新のヨーロッパ音楽をわが国に伝えたアンリ・ジル=マルシェックス(Henri Gil-Marchex)を研究され、その浩瀚な論考で博士号を得た。このピアニストが日仏双方で成し遂げた文化貢献について、その後も地道な探索を続けられている。今回のレクチャーでも、1925年にジル=マルシェックスが東京からラヴェルに宛て送付したクリスマス・カード(フランス国立図書館蔵)がさりげなく初紹介されていて驚かされた(二つ目の画像がそれ)。
全プログラムが終了すると午後六時半を回っていた。白石女史にご挨拶すると、そそくさ退出。暗くなった参道を地下鉄駅まで戻り、東山線で名古屋駅に。新幹線はひどい混雑が予想されるので自由席の多い「こだま」に乗車。東京まで二時間四十分かかるが、なあに急ぐ旅ではない。駅弁の味噌カツ&海老天を頬張り、美術館で買った『いかに戦争は描かれたか』を読んだので退屈知らず。夜更けて十一時帰宅。