アナトリー・ウゴルスキー(Anatol Ugorski/ Анатолий Угорский)の訃報に接して、深く悲嘆に暮れている。近年は録音も途絶え、動静が伝えられなくなったとはいえ、享年八十はやはり早すぎる。彼もまたソ連時代に塗炭の苦しみを味わった音楽家のひとりだが、幸いにも西側に亡命してから、その独創的な解釈により天分を余すところなく発揮する機会を得た。旅先で全くの偶然から遭遇した彼の驚くべきピアノ演奏について記した旧文を再掲して、その死を心から悼もう。
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アナトリー・ウゴルスキーの《展覧会の絵》との出逢いは全くの偶然からだ。それは異国の街での奇蹟的な遭遇だった。
1996年11月28日、小生はミュンヘンのヘルクレスザールの客席にいた。幾多の歴史的名演の舞台となった、あの由緒ある演奏会場である。ルノワール展の出品交渉のため米国の四都市を日替わりで旅したあと、慌ただしいパリ滞在を経て最後の目的地ミュンヘンに辿り着いた我々は、すでに疲労困憊の極にあった。
遠来の客人をもてなそうと、同地の協力者がわざわざ気を利かせて切符を手配してくれた心尽くしの演奏会だというのに、同行の面々は席に着くや舟を漕ぎだし、正体もなく眠りこけてしまった。小生とて同じこと。できれば一刻も早くホテルの部屋で横になりたかった。
客電が落とされ、足早に登場したのは額が禿げ上がった「中年のお茶の水博士」といった飄然たる風貌のピアニスト。名前からロシア人だろうと察するだけで、無知蒙昧な小生は初めてその名前を目にした体たらくだった。だから予備知識も期待感も抱かぬまま、いきなりリサイタルは始まった。
バッハ=ブラームスの《シャコンヌ》に否応なく惹き込まれる。有名なバッハのシャコンヌをブラームスが左手用に編曲したものだ。凄い集中力と訴求力。それでいてクールな客観性も備えていて、なんの根拠もないまま、「このロシア人はひょっとしてグレン・グールドを生で聴いたことがあるのではないか?」と直覚した(後日そのとおりだと判明)。
この一曲で「このピアニストは只者ではないぞ」と、それまでの眠気が一挙に吹き飛んで小生は覚醒した。総毛立つ思いで、席から身を乗り出すように聴き入った。
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この晩のプログラムの最後が《展覧会の絵》だった。
冒頭の「プロムナード」からして独創的だ。凡百のピアニストが高らかに、意気揚々と歩み出すのとはまるで対照的に、ウゴルスキーの足取りはどこかしら覚束なく、物思いに耽りつつ、うつむき加減でためらいがちに歩むといった風情である。
あゝと溜息が出た。そうなのだ、作曲家は今、追悼の思いを胸に、親友の遺作展の会場で緩やかに粛然と歩を進めている。その足取りが颯爽と晴れやかなはずはないのだ!
それからの半時間は、間違いなく、わが生涯の音楽体験のハイライトである。どの曲もじっくり考え抜かれて弾かれ、外面的な効果を狙った浅薄な瞬間など微塵もない。
ウゴルスキーはとことん知り抜いていた——親友の建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺作展に触発されたムソルグスキーの組曲は、その端緒と本質において「喪の音楽」だということ、そして(これが肝腎なのだが)彼が作曲したのは、そこに並ぶ絵画(タブローでなく、いずれも小さな素描や水彩スケッチ)を音に写し取った「描写音楽」では全然なく、ガルトマン作品に触発された彼自身の内なる映像=音像を忠実に映した音楽なのだ、というまっとうな見識である。
だから煌びやかで名技主義的=外面的な描写はことごとく禁欲的に排され、演奏はひたすらムソルグスキーの内面に肉薄しようとする。ウゴルスキーが奏でるのは、作曲家の内なる眼に映じた《展覧会の絵》なのだ。
その最終楽章「キエフの大門」こそウゴルスキーの独創的解釈の白眉であり精華である。
直前の「バーバ・ヤガーの小屋」の禍々しい狂騒からアタッカで続けて威風堂々と荘厳に、と思いきや、消え入るような弱音で開始される「キエフの大門」に驚かぬ者はいないだろう。これは一体全体どういうわけだ?
小生はすぐさま直覚した。あゝ、これこそ遺作展でムソルグスキーが対面したガルトマンの素描 "Каменныя городскія ворота въ Кіевѣ въ русскомъ стилѣ" の第一印象に相違ないのだ、と。
ムソルグスキーが目にしたのは、古都に聳え立つ石造りの巨大な記念門そのものではなかった。紙上に描かれた構想デザイン——出品作中ではやや大きめだが、所詮は 60.8 × 42.9 cm の紙片——小さな雛形案でしかない。構想の雄大さにひき較べ、拍子抜けするほどちっぽけな、ミニアチュールと呼びたくなる小品なのだ。
しかも大門建設プロジェクト自体ほどなく頓挫し、建築家が精魂込めた気宇壮大な設計案は実現せず、あえなく幻と消えた。ああ、なんと可哀想なガルトマン・・・。
小さな紙上のささやかな設計案が、作曲家の想念のなかで三次元の伽藍としてむくむく膨れ上がり、やがて聳え立つ荘厳なアーチとなって姿を現す——ウゴルスキーは「キエフの大門」をそのような音楽として解釈し、作曲家の内面のドラマを生々しく追体験させてくれる。
冒頭の微弱な響きはすなわちガルトマン作品の小ささの謂いであり、秘めやかな提示部から神々しい光を放つ壮麗なコーダへと至る息づまる展開は、作品を前にした人間が味わう印象の変容の過程なのだ。
ムソルグスキーの魂が沸き立つ瞬間をありありと捉えた、世にも稀な演奏。まさしく「心の音楽」そのものだ。これに優る《展覧会の絵》が他にあろうとは想像もできない。
繰り返して言う。ムソルグスキーの《展覧会の絵》は目で見た絵画を音に置き換えた描写音楽では断じてない。作曲家自身がやむにやまれぬ思いを吐露した「精神の所産」なのだ——そう断じたくなるほど、どこまでも深く沈潜し、高く飛翔する内面のドラマをウゴルスキーは奏でている。そのことに感動を禁じ得ないのである。
https://www.youtube.com/watch?v=NyNWnn0_ZNc&list=PLs2vq238vU6kXzOb6LD0Svz83zw1o88uD