井上徹さんの余りに早すぎる死を悼み、彼の仕事の一端について十三年前の2010年6月5日に拙ブログで綴った日誌をそのまま再録する。
驚くべき映画に遭遇した。間違いなく今年のベスト・ワンになるだろうと断言できる。そればかりか十年に一本あるかなきかの傑作ではないか。
一部屋半 あるいは祖国への感傷旅行
Полторы комнаты,
или Сентиментальное путешествие на родину
アンドレイ・フルジャノフスキー監督作品
Андрей Юрьевич Хржановский
2008
製作/アンドレイ・フルジャノフスキー、アルチョム・ワシーリエフ
脚本/ユーリー・アラーボフ、アンドレイ・フルジャノフスキー
撮影/ウラジーミル・ブルィリャコフ
出演/アリサ・フレインドリフ、セルゲイ・ユルスキー、
グリゴリー・ジチャトコフスキー ほか
東京・経堂の日ソ会館(という名称が今だに温存されている!)で「日本ユーラシア協会 新作ロシア映画上映会」があると井上徹さんからメールで教えていただいた。以下の口上を読むうち、ひょっとしてこれは必見ではないかと第六感が疼いたのだ。
(口上)
一部屋半――それが、少年と両親に割り当てられた住まいだった...。
1972年に西側への亡命を余儀なくされた詩人ヨシフ・ブロツキーの自伝的エッセイや絵を素材に、戦後レニングラード(現サンクトペテルブルグ)の文化絵巻が繰り広げられる。ノルシュテインと同世代のアニメ作家であるフルジャノフスキー監督が実写とアニメを組み合わせてつくったファンタジー。
ソ連当局から睨まれ強制労働ののち国外に追放されたヨシフ・ブロツキーは、アメリカの大学に職を得て英語で書く詩人として大成、ノーベル賞の栄誉を授かり米国桂冠詩人にも列せられた。その名声赫々たる詩人が遙か後年(おそらく現代に近い時代)「お忍びで」生まれ育った懐かしい街に帰郷を果たす。
フィンランド湾を横切る船旅の途上、ブロツキーの脳裏ではレニングラードに生まれ育った自らの生涯が、走馬灯のようにフラッシュバックされる。
1948年、中国戦線から生還した軍人の父が持ち帰った珍しい異国の品々(扇、キモノ、能面)。革命前の広壮な館を何十家族で分割し「一部屋半」の狭い空間で暮らした少年時代。親子三人と愛猫の一家水入らずの生活。ガールフレンドとの初体験の滑稽な思い出。ユダヤ人のブロツキー家は強制移住を覚悟し、家財のピアノを手放さざるを得なかったこと(オーケストラの楽器がレニングラード上空を悲しげに漂うマグリットばりの幻想が秀逸)。スターリンが急死した日の衝撃。フルシチョフの「雪解け」時代に謳歌した束の間の自由。若者たちは西側の銀幕スター(ツァラ・レアンダーとターザン!)に憧れ、X線フィルムで手製の海賊盤ディスクを拵えてジャズとロックンロールに熱狂する。そしてお決まりの密告と、それに続く冷酷な思想裁判...。
さり気なく挿入される音楽がどれもいい。ショスタコーヴィチ(第二チェロ協奏曲の断片、ジャズ組曲の「ワルツ」、そして《タヒチ・トロット》!)、シュニトケ(第八交響曲の断片、合奏協奏曲のどれか)、バッハ(ブランデンブルク協奏曲第二番)、ヴィヴァルディ(マンドリン協奏曲)、そしてとりわけマーラー(楽器が列をなして飛び去る場面での第一交響曲の「葬送行進曲」!)と《黒い瞳 Очи чёрные》...。
フルジャノフスキーは高名なアニメ作家だが、この《一部屋半》は初のフィーチャー・フィルムとして撮られており、基本的には劇映画の枠組を崩さない。
つまりそこでは役者の存在がなにより肝腎なのだが、ブロツキーの両親を演じる老優ふたり(Алиса Фрейндлих と Сергей Юрский)の演技はまことに秀逸だ。酷い時代をひっそり飄々と、息子への愛情と日常的ユーモアを欠かさず健気に生きる姿を見事に体現している。まるでチェーホフ劇の登場人物のように。
そこここで不意に出没するアニメ描写は流石に心得たもので、奏功するところ大。とりわけ象徴的な存在として登場する猫と二羽の鴉の面白さといったら! ブロツキー自筆の落書きとおぼしきデッサンが動き出す場面もある。これらアニメーション描写と純然たるドラマ部分、過去と現在の都市風景、さらには随所で流れるブロツキー詩の朗読、巧みに挿入される音楽の断片、これらすべてが精妙に絡み合い、響き合いながら重層し、ブレンドされて筆舌に尽くせぬ複雑な味わいを醸す。
この前代未聞のアマルガムについて、ロシアの指揮者ウラジーミル・ユロフスキーは「これこそ総合芸術 Gesamtkunstwerk だ」と評したそうだが、小生もその言葉に全面的に賛同したい。
私事になるがレニングラードこそは1988年に初めて目にした外国都市としていつまでも忘れがたい。そのときの印象は期せずしてブロツキーの評言と全く同じだった、すなわち、これこそは「地上で最も美しい都市」だ、と。
この映画でもペテルブルグの市街風景が繰り返し映し出される。ネヴァ川とその河岸に並ぶ冬宮殿、海軍省、クンストカメラ、商品取引所と二本の灯台柱、ファルコネ作「青銅の騎士」像、「夏の庭園」、ネフスキー大通り、運河とそこに架かる瀟洒な橋々…。まるで時が歩みを止めたかのような静謐な佇まいがどこまでも続く。
スクリーンに映し出されるレニングラード=ペテルブルグの美しさはまた格別だ。夢のなかの光景といっても過言でない。遠く故郷を懐かしむ詩人のノスタルジーに浸された故か、まるで末期の眼で眺めたかの如きこの世ならぬ妖しい煌めきを放つ。
だが待てよ、実際のブロツキーは亡命してから遂に一度も帰国しなかったはずだぞ、と途中でふと気づくところから、この映画の卓越ぶりがじわじわ実感されてくる。
そうなのだ、ここに登場するブロツキーはもはやこの世の人ではない。二度と故郷の街を見ることの叶わなかった亡命詩人の見果てぬ望郷の夢が遂には死後の魂と化し、亡霊の姿となってペテルブルグに帰還し彷徨するという痛切な物語なのである。帰宅した彼が古びた部屋で両親と再会を果たしたとき、父だったか母だったかが、「お前はもう死んでいるんだろう」と事もなげに息子に問いかける場面がその証しなのだ。Cum mortuis in lingua mortua.
この秀逸にして豊穣な映画については語り尽くすことが到底できない。いずれ正式公開が叶って大スクリーンで再見した折りに、もう一度このフィルムを心ゆくまで論じてみたいと希っている。
今日の上映に際しては、井上徹さんが徹夜で必死に日本語字幕付けにあたられたが、それでも全篇が仕上がらず、後半の映像が届かぬまま上映が中断されるという椿事が発生したが、半時間ほど待つうちDVD素材をもった井上さんが会場に駆けつけて事なきを得た。
とにかく観られてよかった。こんな凄い映画、滅多にない。