あれは20世紀もいよいよ押し詰まった2000年11月のことだった。恵比寿の東京都写真美術館ホールで「ロシア・アニメ映画祭2000」という催しがあり、黎明期のソ連アニメーション作品が一挙上映された。そのなかにミハイル・ツェハノフスキー監督作品の《郵便》(1929)と《おろかな子ネズミ》(1940)の二本が含まれているのを知った小生は狂喜乱舞したのである。
ツェハノフスキーはマルシャークに見出された絵本画家である。稀代の傑作絵本『郵便』(1927)を共作したのちアニメ作家に転身し、ショスタコーヴィチと組んで《司祭とその下男バルダの物語》(1934~35)に取りかかったところで当局から中止を命じられた(ショスタコーヴィチの音楽は完成しており、驚くほど魅力的なのだ)。その後、「荒唐無稽」批判後のショスタコーヴィチと再び協働し、マルシャーク原作によるカラー・アニメ《おろかな子ネズミ》を完成させた。そういう人物の作品が日本初公開される。しかも絵本と同じ題材による《郵便》(無声)と、ショスタコーヴィチ音楽による《おろかな子ネズミ》とだ。昂奮せずにいられようか。
《郵便》は創意工夫に満ちた、想像を絶するフィルムだった。一通の書留郵便がどこまでも宛て先を追っていき、世界各地の郵便屋さんがてくてく歩いて届けようとする、というストーリー(マルシャーク作)に、ツェハノフスキーがスタイリッシュな挿絵を描いた傑作絵本は、小生もかねてから愛蔵している。上映されるアニメはこの絵本を元に、同じアーティストが物語もキャラクターもそのまま、まるごと映像化したもの。これが日本初上映だという。
その素晴らしさに息を呑んだ。心底たじろいだ。絵が動くというのは凄いことだ! 素朴な「切り絵アニメ」ながら、ダイナミックな運動感、スピード表現は比類がないし、 なによりも絵がアヴァンギャルドな魅力に溢れている。無声映画ならではの字幕の入れ方もリズミカルで、間然とするところなく絶妙である。
上映後、小生はうちのめされ、しばらく椅子にへたり込んでしまった。立ち上がると夢うつつ状態のまま、たまたま会場におられた山田和夫さんに話しかけたのだと思う。それまで一面識もなかったし、どれほど高名な方かも知らず、ただ単に「主催者側の偉そうなヒト」と目星をつけたのだ。
《郵便》の上映プリントに附された日本語字幕がたいそう素晴しかったものだから、「字幕の台本を頒けてもらえないか」という、いかにも虫のいいお願いだったのである。ロシア絵本に並々ならぬ関心を抱く者として、マルシャークの原作絵本と比較してみたかったのだ。すると山田さんは嫌な顔ひとつされず、即座にこうおっしゃった。「ああ、その翻訳字幕をつくった本人が今日ここに来ているから、彼に頼むといい」。
その場で紹介された井上徹さんもまた気さくに対応され、「いいですよ、字幕台本をお送りしましょう」と応じて下さった。彼こそはロシア映画の研究者・翻訳者として、この分野の生き字引と称すべき碩学だったのである。後日、井上さんからは懇切な手紙とともに、映画《郵便》の翻訳台本の全テキストが届けられた。スクリーンで目にしたのと同じ、高邁な調子の凛とした日本語字幕であった。
それから三年ほど経って、全く思いも寄らぬ成り行きから芦屋に残る吉原治良旧蔵コレクションと架蔵絵本を組み合わせて戦前のロシア絵本の展覧会を開催することになったとき、その関連企画として真っ先に思いついたのは「ツェハノフスキー三本立て」アニメ上映の開催だった。上記の二本と、《バザール》(未完に終わった《司祭とその下男バルダの物語》の断片)を組み合わせる企てだ。早速その趣旨を井上さんに申し述べると、「可能だと思う。三本ともプリントは今も日本にあるはずだから」との好感触の即答が返ってきた。
そのあとすぐ井上さん立ち会いのもとで山田和夫さんにお願いに赴いたのだと思う。場所は新宿東口の喫茶店「談話室滝沢」だったように記憶する。さすがに今度はひどく緊張した。もう山田さんが映画批評界でどんなに偉い重鎮なのか小生も承知していたし、なんといっても展覧会企画の成否がかかっていたからだ。
言葉を尽くして展覧会の趣旨と、ツェハノフスキーのアニメ上映の必要性をアピールした。絵本『郵便』のカラー・コピーも持参したと思う。何しろ必死だったのでよく憶えていないが、山田さんはほどなく頷くと「協力しましょう」と言ってくださった。
そこから先はトントン拍子だった。日本でこれしか存在しないという貴重な35ミリ・フィルムを借り出し、芦屋市立美術博物館と東京都庭園美術館とで、展覧会の開催に合わせて一度ずつ上映会を催した。しかも図々しいことに、芦屋では井上さん、東京では山田さんをそれぞれゲストに、上映前に小生との対談までお願いした。今にして思うと汗顔の至りだが、当時は無我夢中だったのだ。
それだけではない。井上さんは親切にも、ご自身のホームページで「幻のロシア絵本」展のことを大々的に取り上げ、その意義を縷々力説して下さったのである。このご恩は決して忘れることができない。
以上は十数年前に拙ブログで書いた拙文からの抜粋である。ここに記したように、二十三年前に出逢った井上徹さんはわが大恩人のひとりであり、その後も彼が主宰する「エイゼンシュテイン・シネクラブ」の例会で、多くのロシア映画上映を通してわが蒙を啓いてくれた。その余人をもって代えがたい井上さんが6月12日に急逝された。享年五十八はいくらなんでも早すぎる。