バッハの《ゴルトベルク変奏曲》をオリジナルのチェンバロ以外の楽器で演奏するとなると、グレン・グールドの名を高からしめたピアノ版を誰もが真っ先に想起するだろうが、このほかギターやアコーディオンで奏される機会も少なくなく、ドミトリー・シトコヴェツキーによるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの三重奏用の編曲や、同じシトコヴェツキーが再度手がけた弦楽合奏用の編曲もよく知られている。どんな楽器で奏されようと、バッハはバッハなのだ。
つい最近、その《ゴルトベルク変奏曲》の小管弦楽のための編曲を収めたCDを手に入れた。何より目を瞠ったのはその編曲年――なんと1938年というから、驚くべき早さである。当時はワンダ・ランドフスカのチェンバロによる史上初の録音(1933年11月収録)がなされて五年しか経っておらず、ピアノ版に至っては音盤がひとつもない段階なのだ。編曲者はユゼフ・コフレル(Józef Koffler)なるポーランドの作曲家。いかなる目的と経緯でなされた編曲かは後述するが、半世紀以上も永らく忘却の淵に沈んだのち、1993年になってベルリンで、名指揮者ヘルマン・シェルヘンの遺品のなかから発見されたものという。今夜はその初録音を聴いてみる。
"Bach: Goldberg Variations, arr. Józef Koffler"
バッハ(コフレル編):
ゴルトベルク変奏曲
トレヴァー・ピノック指揮
王立音楽院ソロイスツ・アンサンブル
グレン・グールド音楽学校の奏者たち
2019年5月22, 23日、スネイプ・モールティングズ、ブリテン・スタジオLinn CKD 609 (CD, 2020)
アルバム全曲 ⇒
https://www.youtube.com/watch?v=H6aarvuZD2M&list=OLAK5uy_mw7wKacfTF3D6EG85hPDm7fBI01Qud9-Qユゼフ・コフレルは西ウクライナのストルィ(Stryi)に生まれ、ウィーン留学を経て1928年からリヴィウ(両大戦間はポーランド領)に定住、同地の音楽院で教壇に立った。ポーランドで最初に十二音技法を採用した先駆的な作曲家として知られたが、独ソによるポーランド侵攻でリヴィウがソ連の支配下にはいると、その前衛的な作風が社会主義リアリズムと相容れず窮地に追い込まれた。1941年のドイツ軍のウクライナ侵攻後は家族とともに拘束され、ヴィエリツカのゲットーに強制連行されたのち、1944年の初め頃ナチスの出動隊の手によりクロスノ付近で殺害されたと考えられている。
このようなアヴァンギャルド志向と悲劇的な最期を前もって知ると、作品を聴く前から身構えてしまうが、コフレルが戦乱前夜に手がけたこの《ゴルトベルク変奏曲》の小管弦楽版編曲はきわめて手堅く、晴朗かつ穏健な仕上がりで、ホッと心和むと同時に、正直なところいささか拍子抜けしたところだ。
このコフレル版《ゴルトベルク変奏曲》(1938)は、すでに名前を挙げた指揮者ヘルマン・シェルヘンが編曲を委嘱したものだという。どのような経緯で発注がなされたのか、実際に演奏されたのか否かは詳らかでないが、これに先んじてシェルヘンはジュネーヴのオルガン奏者・作曲家ロジェ・ヴュアタ(Roger Vuataz)に《音楽の捧げ物》(1935)と《フーガの技法》(1936~37)の小アンサンブル用の編曲を依頼しており、いずれも彼の指揮で初演され、録音も残された。《ゴルトベルク変奏曲》のコフレル編曲版も、こうした実践的な企てから生まれたものだろう。レオポルド・ストコフスキが1910年代から手がけていたバッハのオーケストラ用編曲と並んで、シェルヘンが委嘱した一連の編曲も、20世紀前半の新古典主義「バッハへ帰れ」の端的なマニフェストとして歴史のなかに位置づけられよう。
トレヴァー・ピノックの新譜を手にするのは久しぶりだ。古楽器アンサンブル「イングリッシュ・コンサート」の指揮者として、チェンバロ・オルガン奏者として、バッハ、ヘンデルを中心に Archiv レーベルに夥しい録音を残したのも今は昔、近年も紀尾井ホール室内管弦楽団の首席指揮者として来日を重ねてはいるものの、昔日の破竹の勢いはすっかり失われて久しい。
そのピノックは近年、ロンドンの王立音楽院ソロイスツ・アンサンブルを指揮して、モーツァルトの《グラン・パルティータ》、マーラーやブルックナーの歌曲集や交響曲の小編成版の録音をこの Linn レーベルから出しており、本アルバムはその第五弾になる由。賢明な彼はこの《ゴルトベルク》編曲版では、身についている古楽器演奏の流儀をむしろ封印し、あえて両大戦間の新古典主義の演奏実践に寄り添って、コフレル編曲の時代的意義を浮き彫りにしようとする。世にも珍しい「古楽器復興以前の」バッハの実相に寄り添う客観的な姿勢に敬意を表したい。何度も繰り返し聴き込むに値する秀演である。
どうでもいい余談なのだが、某オークションで「リトアニア」をキーワードに検索したら、なぜか本盤が引っかかった。何をどう勘違いされたのか、「バッハ:ゴールドベルク変奏曲(室内楽版)トレバー・ピノック/ロイヤル・アカデミー 2019年 リトアニア盤」として出品されていたのである。お蔭で未知のディスクと出逢うことができた。