DIC川村記念美術館に午後三時半頃に到着。これから展示を見るにはもう遅すぎるので、まずは附属レストラン「ベルヴェデーレ」に立ち寄り、釜揚げシラスと春菊のパスタ定食で腹拵え。茹で具合も丁寧だし、本式の各種前菜と珈琲がついて千九百円は高くない。食するうちに夕暮れ時が迫り、西の空が刻一刻と彩りを変えるのが喩えようもなく美しい。ここのレストランからの眺めは天下一品なのだ。
こんな異例な刻限に訪れたのは、美術館の展示そのものではなく、閉館後にあるミュージアム・コンサートがお目当てだからだ。開催中の「マン・レイのオブジェ」展の関連企画として高橋アキのリサイタルが展示室で催される。題して「エリック・サティ マン・レイに寄せて」。またとない好機を逃してはならじと、意を決して出向いた次第。18時の演奏会の開始まで少し間があるので、展覧会をざっと一巡し(10月にも観た)、常設展示の一郭でここのジョゼフ・コーネル全十七点展示をうっとり眺める。まさしく至福のひとときだ。
ほどなくエントランスに人々が三々五々参集し始める。顔見知りの美術館スタッフに挨拶し、旧知の友人と談笑するうち開場時刻になり、チケットの番号順に会場へと案内される。展覧会の最初の部屋にはピアノが設置され、椅子が八十脚ほど並ぶ。遅い番号の小生は後ろから二列目だが、さほど遠い感じはしない。やがて定刻になり、背後の扉から高橋アキ女史が颯爽たる足取りで登場した。期待が高まる。
DIC川村記念美術館 ミュージアムコンサート
エリック・サティ マン・レイに寄せて
ピアノ=高橋アキ
202展示室
開場17:45/開演18:00
プログラム
【第一部】エリック・サティの作品より
1. ジムノペディ(1888)
■ 第一番
■ 第二番
■ 第三番
2.《天国の英雄的な門》への前奏曲(1894)
3. 自動筆記法(1913)
■ 第一曲「船について」
■ 第二曲「ランプについて」
■ 第三曲「兜について」
4.《メドゥーサの罠》からの七つの小品(1913)
■ 第一曲「カドリーユ」
■ 第二曲「ワルツ」
■ 第三曲「速くなく」
■ 第四曲「マズルカ」
■ 第五曲「少し活気に満ちて」
■ 第六曲「ポルカ」
■ 第七曲「カドリーユ」
5. 最後から二番目の思想(1915)*朗読付き(訳/秋山邦晴)
■ 田園相聞歌(牧歌)
■ 朝の歌
■ 瞑想
6. ジュ・トゥ・ヴー(ピアノ独奏版/1900)
7. シネマ・バレエ《本日休演》の交響的幕間(1924)
【第二部】
エリック・サティ:
1. グノシエンヌ(1890)
■ 第一番
■ 第二番
■ 第三番
2. グノシエンヌ 第七番(1897頃/近年発見)
*連弾曲《梨の形をした三つの小品》第一番の独奏版
モートン・フェルドマン:
3. ピアノ・ピース~フィリップ・ガストンに捧ぐ(1963)
ジョン・ケージ:
4. エリック・サティのための小石の全面、そして
~公案としてジム・テニーに密かに贈られた(1978)
湯浅譲二:
5. セレナード「ド」のうた(1954)
ポール・マッカートニー(作曲)/武満徹(編曲):
6. ゴールデン・スランバー(1992)
武満徹(作曲)&秋山邦晴(作詞)/西村朗(編曲):
7. さようなら(1954/2001)
(アンコール)
エリック・サティ:
《絵に描いたような子供らしさ Enfantillages pittoresques》(1913)
*朗読付き(訳/秋山邦晴)
■ 一日への小前奏曲
■ 子守唄
■ 大きな階段の行進曲
グノシエンヌ 第五番(1889)
演目を記したリーフレットを手に取るまでは、なんとなく「親しみやすいサティ」的な口当たりよい入門篇プログラムを予想していたのだが、どうしてどうして、これは手抜きのない本気プロ。もちろん前半は《ジムノペディ》三曲、後半は《グノシエンヌ》三曲で開始されて摑みはばっちり、サティに親炙しない聴き手の心も捉えて離さない。途中で奏される《ジュ・トゥ・ヴー》ピアノ版もそうだ。
だがしかし、演目には《自動筆記法》だの、《メドゥーサの罠》からの小品集だの、映画《幕間》の音楽など、通好みのサティもしっかり周到に織り込まれたうえに、後半にはフェルドマン、ケージ、湯浅、武満と、ユキさんならではの同時代音楽が果敢に陸続と繰り出される。一切の妥協を排した、盛り沢山で真っ向勝負のプログラム編成なのである。これはもう、受けて立つほかない。
冒頭の《三つのジムノペディ》でいきなり惹き込まれる。誰もが耳に馴染み、アキさんも何百回も弾いたに違いない作品なのに、静謐ななかにニュアンスを込めた演奏には格別の味わいがある。アキさん曰く、「三曲ともよく似ているけれど、サティが言うにはこれは彫刻のような音楽で、見る角度によって彫刻がさまざまに姿を変えるように、音楽もひとつではなく、いくつもの相貌があって、だから似ていても違う作品が出現する」(大意)ということらしい。
サティの音楽には造形芸術に近いところがある、という話は、いかにもミュージアム・コンサートにふさわしい導入である。これで誰もが直ちにアキさんの演奏に惹き込まれたと思う。
そのあとも《自動筆記法》ではシュルレアリスムが出現する十年も前にサティが早くも無意識による創作を試みたこと、《メドゥーサの罠》ではダダを先取りするような芝居に音楽をつけたことなどが紹介される。サティはパリの音楽界で孤立した存在のようにみえるが、20世紀初頭の前衛芸術の展開の尖端に位置していたのだ。
そしてその帰結がピカビアやルネ・クレールとの協働による映画音楽《幕間》という次第。アキさんは「音楽は映像に合わせて書かれている。本当は展示室の壁に映画を投影しながら弾きたかったのに、それができなくて」と、いかにも残念そうな口ぶりである。
言い添えておくと、サティはしばしば楽譜に文章や詩を書き込んでいることがあり、アキさんは適宜それを朗読しながら演奏する。前半では《最後から二番目の思想》がまさにそれで、秋山邦晴さん(アキさんの亡くなったご主人)による訳詩を朗読しながらの演奏である。これぞまさしく、かけがえのない聴きものだ。
十五分間の休憩のあと、再びサティの馴染み深い《三つのグノシエンヌ》で再開された演奏会は、次の《グノシエンヌ》第七番で転調する。というのも、この曲は連弾作品《梨の形をした三つの小品》の第一曲とそっくりの作品で、その《梨の形をした三つの小品》こそは、マン・レイが後年サティを偲んで創った三点のオマージュ作品のモティーフの源泉になっているからだ。これこそはマン・レイの展覧会場で奏されるのに最も似つかわしい楽曲ということになろう。
1921年にグループ展に出品するため初めてパリを訪れたマン・レイは、この街に全く知己がいないばかりか片言隻句フランス語も解さずに展覧会場で孤立していた。そこに声をかけて来たのは山高帽を被り、黒い外套をまとい、蝙蝠傘を携えた初老の紳士だった。まるで葬儀屋か銀行勤めの偉いさんかと思った、とマン・レイは回想する。
「その紳士は私の腕をとって画廊を出て角のカフェに連れていき、ラムのお湯割りを注文した。エリック・サティだと自己紹介してからフランス語に戻ったので、フランス語は判らないと伝えた。彼は眼をきらりと光らせて、かまいませんと言った。」
サティは母がスコットランド人だったので英語がしゃべれたのだ。ラム酒を呑んで意気投合した二人はそのあと雑貨屋へと赴き、マン・レイはサティの口添えを得て、アイロンと釘と接着剤を購入する。これこそがマン・レイがパリで手がけたオブジェの第一作《贈り物》になる・・・という名高い挿話を、高橋アキさんの語りで聴く悦びはまた格別である。ミュージアム・コンサートならではの贅沢な聴取体験というべきか。
そのあと、演目は一旦サティを離れてモートン・フェルドマン、ジョン・ケージと転ずるが、フェルドマンこそはマーク・ロスコを筆頭に戦後アメリカの抽象表現主義の画家たちとの交遊が密だった作曲家だから、ここDIC川村記念美術館とも見えない絆で結ばれている。
アキさんはフェルドマンの自宅に招かれて、いくつもの美術作品を目にした思い出を語り、こんな話をした。「フェルドマンに誘われてナイアガラ滝を見物に行くことになった。ところがちょうどその日に友人の画家フィリップ・ガストンの訃報が届き、約束は果たされませんでした」。こんな貴重なエピソードとともに奏される《ピアノ・ピース~フィリップ・ガストンに捧ぐ》を聴く感興を何に譬えるべきだろう!密やかなニュアンスが点綴される、こよなく美しい作品である。
後半の締めくくりは、戦後わが国の作曲界を牽引した二人の巨匠、湯浅譲二と武満徹の作品である。こう書くと誰もが思わず身構えてしまうだろうが、なあに、ご心配は無用だ。どちらの作品も驚くほど平明で美しく、すんなり胸に染み入る作品だからだ。
現今の日本楽壇の最長老である湯浅の《セレナード「ド」のうた》(1954)は最初期の作品のひとつだそうで、彼が武満とともに瀧口修造が主宰する「実験工房」に関わった当時の若書き小品。タイトルにあるとおり「ド」の音がオスティナート風に連打されるが、全体としては静寂にじっと耳を澄ますような、繊細で好もしい音楽。
武満の《ゴールデン・スランバー》(1992)は、言わずと知れたポール・マッカートニー作品でアルバム《アビイ・ロード》所収曲。1990年代初頭にアキさんが企てた「ハイパー・ビートルズ」のCDシリーズのために、武満が特別に編曲したものだ。ディスクで馴染んだ曲をこうして生で耳にする歓びは何物にも代えがたい。
最後の《さようなら》(1954)は武満が最初期に書いた「ポップス」歌謡のひとつで、平易に口ずさめる曲想だが、ここで奏されたヴァージョンは彼の歿後に西村朗が新たなアレンジを施してピアノ曲としたもの。原曲の面目を一新した、たいそう新鮮な聴きものだった。
これら三曲は湯浅と武満の膨大な作品宇宙のなかのほんの片隅を占める矮小な天体に過ぎないが、それでもこれらが宿す光芒はかけがえがなく、決して取るに足らない星屑ではない――そんな印象が強く残ったのは、アキさんがそれらに注ぐ愛着の強さの故だろう。
そしてアンコールは再びサティ。子供が好きで子供からも好かれたというサティの面目躍如たる《絵に描いたような子供らしさ》という珍しい作品と、懐かしさが胸にこみ上げる《グノシエンヌ》第五番。
なんという見事なプログラム、なんと心のこもった演奏だろう。マン・レイへの目配せもたっぷり! 妥協のないアプローチ、楽曲への愛に満ちたアキさんの誠実なお姿に感動した。
終演後に表に出て夜空を見上げると、月が煌々と照り映えていた。この美術館の至福の一夜をいつまでも忘れることはないだろう。