新国立劇場《ペレアスとメリザンド》公演初日。旧態依然たるこの歌劇場が創設二十五年にして、ようやく《ペレアス》を舞台にかける。生前ここでの上演を悲願とした若杉弘さんはさぞかし嬉しがっておられるだろう。もちろん小生にとっても感慨深い慶事だったから、普段オペラを観ない家人を伴い、平土間前方の見やすい席に陣取った。
ただし、この劇場が《ペレアス》初上演にケイティ・ミッチェル演出版を採用したことの是非は大いに問われるべきだ。鬱蒼たる森や中世風の城館を廃し、舞台を近代的な邸宅内に限った舞台装置は奏功していたが、多くの場面でメリザンドが二人——歌い演じるメリザンドと、言葉を発しないその分身(?)——揃って登場し、本来そこにいないはずのペレアスやゴローがあちこち出没するのは、一体全体どういうつもりなのか。演出上の小賢しい理屈はどうあれ、なんともはや目障りで、観る者を徒らに混乱させるばかりだ。
主人公たちのふるまいにも違和感が終始つきまとう。ゴローを直情径行な乱暴者、ペレアスをおずおず臆病な小心者に描くのはともかく、メリザンドを果敢で情熱を秘めた女性と規定し、それらしく行動させるのがミッチェル演出の意図なのだろうが、メーテルランクとドビュッシーの精神に照らして、この新機軸には明らかに無理がある。百歩譲って演出家に一理あったとしても、多くの観客にとって原体験となる「初めての《ペレアス》上演」にはおよそ不向きな舞台である。
六年前にエクス=アン=プロヴァンス音楽祭で初演された際の映像を観たとき覚えた戸惑いと疑念を、実演に接して再び蒸し返すだけの残念な結果に終わった。生の舞台でドビュッシーの歌劇に接する歓びは何物にも代えがたいが、それだけに「このプロダクションでなければよかったのに」という痛恨の思いを禁じ得ない。