先月のレクチャーが終わって肩の荷が下りたので、それからは読書三昧の日々。ようやく静穏な日常が戻った。
先月上旬のこと、作曲家の評伝を求めて新刊書店へ赴いたが、あいにく入荷しておらず、無駄足になるのも癪なので、店頭をあちこち物色していて、鍾愛の作家の分厚い評伝が棚にあるのに気づいた。
本文だけで五百三十頁もある大著でちょっと怯むが、いったん読み出すともう止まらない。内田百閒(著者は戦中まで用いられた「百間」表記にこだわる)についての初の本格的な評伝である。それも日記や手紙を徹底的に読み込み、彼の生涯に関わる家族や師友、教え子はもちろん、前半生にかかわりの深かった高利貸に至るまで、百閒を取り巻く人間関係を水も漏らさぬ綿密さでとことん調べ上げた。
これまで教え子や門人たちが口を閉ざしてきた、あるいは曖昧に済ませてきた事実が白日の下に引き出される。初恋の相手にして恋女房だったはずの清子夫人との長きにわたる確執や、事実婚が長く続いたこひ夫人の知られざる出自、奉職した大学での複雑怪奇な人間関係、そこそこ収入がありながら嵌り込んだ借金地獄の実相など、百閒にとっての「不都合な真実」が次々に明らかになる。
にもかかわらず、この評伝が毫もスキャンダラスな暴露趣味を帯びないのは、ひとえに著者の驚くべき探索能力と、客観的で抑制のとれた筆致の賜物であろう。その背後には愛がある。「とんでもない生活破綻者だ」と呆れる一方で、百閒がますます好きになってしまう。