わが国におけるクルト・ワイル研究の泰斗の手になる評伝の決定版が遂に出た。前々から執筆中だと風の便りに知らされ、刊行を今か今かと待望していたが、当初の予想をさらに上回る見事な出来映えに感嘆させられた。鶴首して待った甲斐があったのである。
クルト・ワイルの生涯はナチス政権が樹立された1933年で二分される。それ以前のベルリン時代は《マハゴニー》《三文オペラ》などベルトルト・ブレヒトとの協働作業に代表され、それ以後はパリ、ロンドンでの亡命生活を経てニューヨークに辿り着き、ブロードウェイの作曲家としての華々しい成功に彩られる。
このように生涯がくっきり「二つの時代」に分かれるところがワイル研究の躓きの石であり続けた。そのあたりの事情は、やはり生涯がロシア=ソ連時代と欧米滞在期とに二分されるプロコフィエフ研究とよく似ていると思う。どちらの時代に重きを置くかによって、全く異なる芸術家像が浮かび上がるのである。
ベルリン時代、とりわけブレヒト劇の座付き作曲家としてのワイルを重視する者は、のちのブロードウェイ時代のミュージカルを底の浅い娯楽音楽と見做しがちだ。かつて出た岩淵達治と早崎えりなの評伝『クルト・ヴァイル』(ありな書房、1985)が「ブレヒト演劇からブロードウェイ・ミュージカルへ」と副題されながら、記述の多くをベルリン時代に割き、ニューヨーク時代をごく手短に済ませていたのは、そのあからさまな表れだった。
岩淵の愛弟子である大田さんの新著は、積年にわたるアンバランスな評価の歪みを是正し、ワイルがさまざまな時期に遺した音楽劇の実態に即した公正な記述を心がけた点で、劃期的な意義を有するものだ。本書の帯に、「二つに引き裂かれたヴァイルの豊かな世界を、最新の研究・資料に基づいて生き生きと描き出す。」とあるのは、そのあたりの事情を言い当てた惹句なのである。
大田さんは自らの問題意識を背後に忍ばせるのでなく、むしろ明確に前景化し、読者も同じ意識を共有するよう強く誘う。
ワイルの生涯を語る前に、本書はまず〈《三文オペラ》と「二人のヴァイル」〉と題した序章を冒頭に置き、批評家テオドール・アドルノが渡米後のミュージカルを「創造的な精神の堕落」と切り捨て、ワイル評価における分裂と偏向を招いた経緯を記し、この「裂け目」がワイル研究者の間でいかに物議を醸し、その後の長い年月でどう修復され統合されつつあるかを略述する。
本書の読者は開巻一番、否応なくポレミックな論争に巻き込まれ、この「二つに引き裂かれたヴァイル」問題を常にどこかで意識しつつ、彼が歩んだ五十年間を追体験することになる。
こう書くと、なんだか理屈っぽい評伝を読まされるようだが、さにあらず。鋭い問題意識を孕みつつも、大田さんの筆致はいつも明晰で平明なうえ、ワイル自身が家族や友人に書き送った手紙を随所で引用することで、作曲家の生の息吹をいきいきと感じさせる。彼が生き延びた過酷な時代背景についての解説もわかりやすく行き届いたものだ。
第三章で語られる《三文オペラ》制作過程や、第四章に記された《マハゴニー市の興亡》上演時のスキャンダルなど、重要作品についての記述が詳しいのは当然として、本書ではその他の音楽劇、例えば初期のパントマイム《魔法の夜》や、英国で上演されたオペレッタ《牛の取引》や、ブロードウェイ時代のミュージカル《ラヴ・ライフ》やラジオ劇《はるけき谷間に》のような滅多に言及されない作品に至るまで、細やかで周到な目配りがなされているのにも感心する。
これら知られざる佳作について、日本語で詳しい解説が読める日が来ようとは思わなかった。本書はワイルの音楽劇すべてについての、このうえなく懇切な手引きとして読まれるだろう。
大田さんの立場は首尾貫徹したものだ。ドイツ時代にブレヒトやカイザーと協働したワイルは、渡米後もマックスウェル・アンダーソン、モス・ハート、エルマー・ライスら腕利きの台本作者と緊密に仕事をし、一貫して新たな音楽劇の創造に尽くしたというのが彼女の所論であり、そこには「二つに引き裂かれたヴァイル」の統合を目指す強い意志が感じられる。彼女の目論見は本書において存分に達成されたといえよう。ここには等身大の「一人のヴァイル」が息づいている。
本書を三月中旬に手にし、すぐにざっと通読したあと、二度目はじっくり時間をかけて味読した。
申し分のない名著であることは冒頭で申し述べたとおりだが、惜しむらくは不注意による誤りが散見される。どんな書物にも誤記・誤植はつきものだが、著者が心血を注いだ本書にとって、それらは残念の域を超え、むしろ許しがたい怠慢の所産というべきだ。担当した編集者が精読の労を惜しんだか、校閲者の目がよほど節穴だったか、そのいずれかだろう。歴史ある版元の凋落ぶりが情けない。