きっかり四半世紀前の1996年、季節も今と同じ初冬だったと記憶するが、ルノワール展の準備でパリ出張した折り、ご一緒した札幌の美術館の佐藤氏が「せっかくの機会なので、パリ十区に住む妹に会っておきたい」と言うので、夕食後タクシーで同道した。
パリ中心部から十数分ほど走ったろうか、ほの暗い閑静な市街地の一郭で下車すると、思いも寄らぬ光景が目に飛び込んできた。驚いたことに、小さな運河に面して「北ホテル(Hôtel du Nord)」なる建物が実在し、カフェ・レストランとして営業中なのである。いきなり往年のフランス映画の仮想空間に迷い込んだ心地がして、夢うつつの状態で立ち眩みがした。
翌1997年の晩秋にもルノワール展の出品交渉で単身パリを再訪する機会があり、このときは時間の余裕があったので、鄙びて風雅なサン=マルタン運河界隈を夕刻にそぞろ歩いた。
東岸のジェマップ河岸(Quai de Jemmapes)――上述した北ホテルの建物はここに立地する――をさらに北上すると、運河の幅が少し広まったあたりに、二艘の色鮮やかな小さな平底船が繋留されていた。ああ、ここがそうなのだ、と目を瞠った。
これこそが世界最小の歌劇場と喧伝され、かねてから噂に聞いていた「ペニッシュ・オペラ La Péniche Opéra」だった。ペニッシュとは平底船――ポンポン蒸気の謂いである。運河に浮かぶオペラハウス!
ただし残念ながら、今夜はすでに満員札止めと貼り紙で告知されていた。船上の受付係曰く、来週分の切符ならまだある、と。だが小生はそれまでパリにいられない。その場で地団駄踏んで悔しがった。
よほど無念そうな表情を浮かべたからだろう、受付係が憐れんで、こっそり小声で「最後の一枚ダヨ」と特別に切符を売ってくれたのである! なんという親切、なんという僥倖!
その晩の九時から、客席七十席限定のペニッシュ船のキャビンで観たオペレッタ二本立てはまさしく絶品だった。抱腹絶倒の面白さ。演技は練達を極め、音楽的にも非の打ちどころがなかった。
その晩、昂奮して東京の友人あてに書き送った手紙(の下書き)が今も手元に残っている。
演し物はサッシャ・ギトリがイヴォンヌ・プランタンのために書き下ろした《S. A. D. M. P.》。作曲は Louis Beydts という人。もちろん初めて見聞します。正直なところ、歌詞と科白は五パーセントも理解できませんが、それなのにこの愉しさ! 極上の快楽を味わい尽くした一時間。 オペラ・コミック/コメディ・ミュジカルの真髄に触れた心地がしました。劇場は運河に繫留した小さな平底船で、吉祥寺のバウスシアターのジャヴ50を二つ並べたほどの狭さ。客席――階段状のスペースに並んで坐るだけですが――は限定七十。満員の聴衆は決してスノッブな連中でなく、くつろいでよく笑い、すっかりリラックスして舞台を愉しんでいます。オペラといっても、ピアノ一台と歌手が五、六人だけ。このうえなく簡素ですが、効果的な演出はちょっと真似のできないもの。なんという贅沢な企てかと感嘆しました。
この《S. A. D. M. P.》の上演は約一時間で終わり、聴衆たちは促されるまま、いったん下船して運河の岸で休憩。ニ十分ほどすると準備が整い、二本目のオペレッタの上演となる。
今度は並んで繫留されたもう一艘の平底船へと導かれる。こちらはフラン・ノアン台本/クロード・テラス作曲の《秘密の長靴 La Botte secrète》という一幕物。靴屋の店を舞台にした面白いオペレッタだが、1905年に初演されてから、長らく忘れられていたという。
二本目の上演が済むと、時計は夜十一時を回っていた。12月のパリの夜風は肌にひやり冷たかったが、心は昂揚感と充足感で満たされていた。とうとう「ペニッシュ・オペラ」を体験できた、未知のオペレッタを思う存分に愉しんだという嬉しさで胸が一杯になった。
初めて耳にするオペレッタで、歌詞がほとんど聞き取れないのに、存分に楽しみ「極上の快楽を味わい尽くした」とはどういうことなのか。「このうえなく簡素」なのに、「効果的な演出はちょっと真似のできない」舞台とは、いかなるものだったのか。
平底船の細長いキャビンは、舞台となる空間と階段状の客席とに二分され、周囲の壁は黒一色に塗られていた。片隅にピアノが置かれているだけで、舞台上には装置も小道具も何もない。
客電が落とされ、オペレッタが始まると、年齢のまちまちな紳士四人がそれぞれ花束を持って登場し、かわるがわる自己紹介する。一人は血気盛んな若者、もう一人は中年の大商人、三人目は初老の富裕な工場主、四人目は老いた男爵である。彼らは同じひとりの女性にぞっこん惚れ込み、求愛のため彼女の住まいを訪れ、その戸口で鉢合わせしてしまったのだ。
フランス語がさっぱりなのに、どうして粗筋が辿れたかといえば、登場する男たちがめいめい白墨を手にしており、歌で自己紹介しながら、船室の黒い壁に即興でチョーク画を描いてくれるからだ。歌詞が皆目わからなくとも、彼らが何をアピールしているか、手に取るように理解できたのだ。なんという親切で素晴らしい演出だろう!
やがて着飾ったヒロインが登場し、四人からこもごも求婚されるが、曖昧な態度でやり過ごし、どの男にも承諾を与えない。気位の高い美女と付き合うには、相応の出費が欠かせまい――そう悟った男たちは一計を案じ、その場で紳士同盟 ”La Société Anonyme des Messieurs Prudents(分別紳士株式会社)" を結成する。すなわち一週間を四つに分割し、若者と商人と工場主は二日ずつ、男爵は日曜日の受け持ちとし、いがみ合わずに彼女との逢瀬を愉しむことで衆議一決して一件落着、めでたしめでたし――とまあ、そういうお話である。
まことに能天気でふざけたストーリーなのだが、サッシャ・ギトリの歌詞は機知に富んで当意即妙(たぶんそうだろう)、ルイ・ベーツの旋律も潑溂と弾んで、極上の愉悦感を醸し出す。
登場する五人の歌手は歌も演技もきわめて達者で(男たちはチョーク画も上手だ)、何もない裸舞台でピアノ一台を伴奏に歌い演じられても微塵も引けを取らない。これはこれで立派にオペラ興行たりうる。ガルニエやバスティーユの豪奢な舞台にも匹敵できるのだ。
このオペレッタの抱腹絶倒の面白さについて誰かに伝えたくとも、それを偲ばせる映像や音源が存在しない。《S. A. D. M. P.》はフランス本国でも上演の機会が滅多になく、SP時代の昔から今日まで、一度もレコード録音されていない。忘れ去られた作品なのだ。
ところがつい最近、このオペレッタが2015年にアヴィニョンで上演され、2017年に小さなレーベルからCD化されている事実に、遅ればせながらも気づいた。小生が欣喜雀躍したのは言うまでもない。
"La S.A.D.M.P. -- Orchestre Régional Avignon-Provence"
ルイ・ベーツ:
《分別紳士株式会社 La Société Anonyme des Messieurs Prudents》
彼女/イザベル・ドリュエ
青年アンリ・モラン/ジェローム・ビリー
大商人/マティアス・ヴィダル
大工場主/ドミニク・コテ
老男爵/トマ・ドリエ
サミュエル・ジャン指揮
アヴィニョン=プロヴァンス地域管弦楽団
2015年3月30日–4月1日、ル・ポンテ、グラン=タヴィニョン楽堂
Klarthe K040 (CD, 2017)
聴く前から胸がいっぱいになる。ギトリ=ベーツのオペレッタを再び耳にする日が訪れるとは、長生きはしてみるものだ。
封を切って仏文ライナーノーツに目を通すと、作曲家ルイ・ベーツの生涯が詳しく綴られていて裨益するところ大。
ただし、肝心のオペレッタの内容については、歌詞対訳はおろか粗筋の紹介もない。フランス人にとっては「聴けばわかる」内容なのだから、その必要もないはずだ。そもそもフランス語を耳で聴きとれない東国の異邦人が当盤を手にすることなぞ、端から想定外なのだろう。でもまあいい。聴けるだけで幸せなのである。