刊行が待ち望まれていた澤田精一さんの光吉夏弥評伝が遂に発売になった。実は澤田さんから早々とご恵贈いただき、数日前に読了していたのだが、奥付に記された発行日(10月5日)を待って、いよいよこの労作をご紹介できる。誕生日のこよなき贈物として。
澤田さんは福音館書店の編集者として光吉と深い関わりがあった。月刊誌『子どもの館』に光吉が連載していた「子どもの本の世界から――その文献と資料」の二代目の担当者を五年間にわたり務められ、連載終了後も1989年に光吉が歿するまで資料収集を手伝った。晩年の十五年ほど彼の謦咳に触れた貴重な体験をおもちである。
光吉が遺した一万三千五百冊もの児童書(戦前の稀少なロシア絵本六十一冊を含む)が散逸を免れ、白百合女子大の児童文化研究センターに「光吉文庫」として収蔵されたのも、仲介役を務められた澤田さんのご尽力の賜物なのだ。
澤田さんは光吉夏弥の評伝をライフワークと定め、近年あちこちの媒体にその成果の一端を披露されており、何度か講演会でお話もされている。このたび岩波書店から上梓された評伝『光吉夏弥 戦後絵本の源流』は、いわばその総まとめの労作である。
光吉夏弥は絵本と児童文学、舞踊評論、写真評論の三分野に跨って膨大な仕事を残しているが、自分自身について語る機会が極度に少なく、自伝的な回想は無論のこと、身辺雑記の類も皆無である。心情を綴った日記や手紙も残さず、戦前の写真すらほとんど見つからない。三つのジャンルで誰よりも深い知識と見識をもちながら、いわば黒子に徹した一生を送った人物だから、その生涯の事績を追いながら評伝を書くのは、文字どおり至難の業。
本書の帯に「『ひとまねこざる』の翻訳者はいかなる人物だったか」「戦前に遡り謎多き実像に迫る初の評伝」とあるのは、そのあたりの事情を如実に示している。「初の評伝」どころか、今後もう二度と書かれる機会がなさそうな、謎だらけの生涯なのだ。
澤田さんはまず、英語に堪能で殖産興業の分野で活躍した父・元次郎の経歴から説き起こし、その長男である夏弥の欧米志向が父譲りで、おそらく幼時に芽生えたことを示唆する。
慶應大学在学中の1925年から舞踊評論に手を染めた夏弥は、卒業後は鉄道省外局の「国際観光局」に就職、海外文献の翻訳やパンフレット発行、海外向けの宣伝グラフ雑誌 "Travel in Japan"(1935創刊)の編集に従事した。職業柄さまざまな写真家との交友から写真評論にも進出、自ら小型カメラのライカを手に、来日舞踊家の舞台を撮影した(その貴重な実例がコラムで紹介される)。
戦前の光吉の二つの専門分野――舞踊と写真とは、どうやら彼にとって分かちがたい地続きの領分だったらしい。
では三つ目の専門分野である「子供の本」がいつ、どのように光吉の視界に捉えられたのか。本書にとって不可欠な問いかけだが、澤田さんの入念な探索によっても、事の次第は明らかでない。
光吉は日米戦争勃発後の1942年、筑摩書房から『フタゴノ象ノ子』『花と牛』の二冊のアメリカ絵本を翻訳して児童書の分野にデビューするのだが、その選書眼の確かさ、翻訳の巧みさ、日本版に作り変える際の入念な編集術など、当時すでに絵本のなんたるかを熟知していたことがわかる。彼は欧米絵本を数多く蒐集しており、翌43年に雑誌『生活美術』の絵本特集で、多彩なコレクションの一端が披瀝された。ここで光吉が披瀝する博識と慧眼な「目利き」ぶり――1930年代のロシア絵本の意義を的確に指摘したのはその一例だ――にはただただ驚かされる。こんな傑物は当時この国には二人といなかった。
敗戦後の混乱期、光吉はさまざまな出版社で児童書や子供向け雑誌の出版に関わるが、戦前から培った造詣の深さを活かす企画に巡り合えぬまま、多忙な数年が過ぎていく。澤田さんは綿密な調査を踏まえて、戦後の光吉の悪戦苦闘の軌跡を冷静な筆致で辿る。誰もが生き延びるのに必死だった時代、光吉ほどの逸材が物知りで重宝な翻訳者として、「漂流する編集者」として、不当に扱われるさまに胸が痛む。
そこに舞い込んだ新企画が「岩波の子どもの本」である。「岩波少年文庫」に続く年少向け絵本シリーズとして、石井桃子を中心に構想されたが、肝心の海外絵本が手元に乏しく難航していた。そこで三顧の礼をもって編集スタッフとして招かれたのが光吉夏弥だった。
今なお読み継がれる『ひとまねこざる』が、『はなのすきなうし』が、『みんなの世界』が、『九月姫とウグイス』がこのとき光吉の邦訳で世に出た。一方の石井は『ちいさいおうち』『百まいのきもの』『こねこのぴっち』などの名作を訳しているが、それらの海外絵本のほとんどは光吉コレクションから提供され、光吉の手によって小型サイズの日本版(本文が縦組で、絵本の開きと進行方向が原著とは逆)にレイアウトが作り変えられた。
この手のかかる作業を光吉は驚くほど短期間で、恐るべき入念さをもって仕上げている(1953年12月からの一年間に二十四冊を刊行)。しかも、彼をこの仕事に誘った石井桃子は刊行半ばで米国留学の途に就いてしまい、光吉は後事のすべてを託された形だった。澤田さんはその経緯を淡々と記すのみだが、これはつまり自分抜きでも厄介な編集作業が続くよう、石井が予め仕組んだ巧妙な罠だったかもしれず、光吉はまんまと彼女の奸計に嵌まったことになろう。
もしそうだとしても、「岩波の子どもの本」で光吉の見識と技量が十全に生かされ、刊行から七十年近く経て現役の絵本として愛されているのだから、これでいいのだろう。事実、多くの読者にとって、光吉夏弥の名は「おさるのジョージ」や「牛のフェルジナンド」や「おらがくん」と分ちがたく結びついている。以て瞑すべしというべきか。
本書のハイライトが「岩波の子どもの本」と題された第五章にあるのは明らかで、書名にある「戦後絵本の源流」とはすなわち、この絵本シリーズが果たした歴史的役割を指している。
それに続く最終章は「『岩波の子どもの本』以後の活動」と名づけられ、その後の光吉が写真・舞踊・児童書の三分野で成し遂げた仕事について記す。戦前から脈々と続く関心領域での活動の総仕上げである。ただし、研究の総仕上げとなる著作集などでなく、写真全集や写真年鑑の編集、啓蒙的な舞踊書と公演パンフレットへの寄稿、『子どもの館』に連載された児童文学の文献資料リストなど、手堅いが地味な仕事ばかり続く。このあたりがいかにも光吉の黒子たる所以であり、児童文学の分野に限っても彼の存在が石井桃子や瀬田貞二ほどに尊重させずに終わった原因でもあろう。
舞踊、写真、子どもの本という三つの世界で、いずれも先駆者であり、翻訳、評論、そして資料の収集とデータ・ベースの構築を生涯かけて続けました。それでいながら、そうした文筆活動を一冊の単行本として編むこともなく、指導的な著作も著しませんでした、どこかジャーナリストの趣があり、ときには司書のような姿勢をみせることもありました。戦前から時代をみる目は確かで、じつにしたたか。戦時下でもぶれませんでした。でも戦後となると、ある意味、光吉の思うような時代になったはずなのに、なにか齟齬が生じたように感じるのです。あれこれの組織に関わることもなく、どこか頑固な風貌がのぞくようになって、孤独な雰囲気が漂うようになります。
誇り高い孤独、という言葉が口をつく。稀代のスタイリッシュな目利きは徒党を組むことなく、自分ひとりで築き上げた牙城にこもって、三つの魅惑的な領分への愛と関心を絶やすことがなかった。なんという天晴れな人生だろう。本書はその類まれな、謎めいた、真摯で誠実な生涯の全体像を示している。
解明されなかった謎も少なくない。若き日の光吉が抱いた舞踊への熱烈な関心はどのように生まれたのか。欧米の文化にあれほど憧れながら、老年まで外遊の旅に出なかったのはなぜか。そして(これこそ最大の謎なのだが)戦前の彼を児童書の蒐集へと導いた、そもそもの動機は一体なんだったのか。
本書を読み進むにつれ、光吉夏弥をめぐる疑問は氷解するどころか、むしろ、ますます深まっていく感が否定しがたい。それらを解明すべく、この多面的な人物をさらに探究したくなる。この最初の評伝はそのための確かな手がかり、信頼のおける里程標なのである。