今から二年前、それまで実見の機会を逃していたクリス・マルケル監督の滞日記録映画《不思議なクミコ》(1965)を初めて観た。その折りの感想文をまず書き写してみる。
《北京の日曜日》(1956)と《シベリアへの手紙》(1958)、そしてイスラエルに取材した《ある闘いの記述》(1960)を撮ったあと、ほぼ全篇がスチル写真で構成された劃期的な近未来フィクション《ラ・ジュテ》(1962)を撮ったのを契機として、映像作家クリス・マルケルの作風は急転回を遂げる。
《ラ・ジュテ》から二年後の1964年、マルケルは東京オリンピックの取材という名目で初来日するが、彼の関心はオリンピック競技にはなく、戦後の復興途上の東京そのものに注がれる。
日本に着いたマルケルはまず、旧知のマルセル・ジュグラリスが代表を務める映画配給機関「ユニフランス・フィルム」駐日代表部の有楽町のオフィスを訪ね、東京での案内役の斡旋を頼んだ。
ジュグラリスが紹介したのは、当時アルバイトとして彼の秘書役を務めていた村岡久美子だった。
日仏学院でフランス語を学ぶ久美子はひととおり日常会話ができたので、案内役として打ってつけだった。マルケルは一目でクミコに好印象を抱き、瓢箪から駒が出る塩梅で撮影の方針を改め、映画の主役として彼女を据えることにした。
こうして《不思議なクミコ Le Mystère Koumiko》(1965)はオリンピックに湧く東京を背景に、一人の若い日本人女性の姿を映し出す実験的なフィルムとなった。
1936年生まれのクミコは当時二十八歳。撮影助手にはやはりジュグラリスのもと「ユニフランス・フィルム」で働いていた二人の青年、柴田駿と山田宏一が就くことになった。誰もがまだ若く、誰もがまだ無名だった。
それまで北京やシベリアやイスラエルで撮った映像とは明らかに毛色の違った「記録映画」の誕生である。撮影の主眼はオリンピックでも1964年の東京の風景でもなく、そこで暮らす女性の「不思議」の諸相こそがクロースアップされる。
戦前の満洲に生まれ、フランス文化に憧れるクミコは現今の東京に違和感を覚えているらしく、背景をなす都市環境と彼女の間にも微妙な齟齬が感じられる。さほど流暢でない彼女のフランス会話力や、内気で慎重な性格もあってか、監督と被写体との対話は円滑とはいいがたく、すれ違いがちだ。
むしろ、そのコミュニケーション不全こそが《不思議なクミコ》の不思議な魅力だろう。クミコの声は全篇で流れるが、画面とシンクロした語りは一切なく、後半ではマルケルが投げかけた問いへの答えが、帰国したマルケルのもとにクミコから届いた録音テープから再生される。編集された会話は間接的なものに留まり、もどかしい遅延と時差を伴う。
以上がそのときの拙い感想文である。文中で、東京での撮影助手として「二人の青年、柴田駿と山田宏一が就くことになった」と記したが、この時点で山田宏一はフランス留学の直前で多忙だったため、マルケルに同行して撮影助手を務めたのは柴田駿ひとりだったと判明した。山田宏一はといえば、パリに戻ったマルケルがこの映画を編集する段階で、日本語会話の仏訳など、ポスト・プロダクションの一環として仕上げを手伝ったらしい。
フランスへの憧れやみがたい「クミコ」こと村岡久美子は、念願かなって1966年に渡仏し、そのまま二度と戻らなかった。その後、彼女はフランス人と結婚し、パリで双子の娘を生み育てた。文筆家を目指したらしい彼女は満洲で過ごした幼少期や、ユニフランス時代の思い出を散文や詩に書き残したが、晩年には認知症を患い、2018年11月に亡くなり、ペール=ラシェーズ墓地に葬られたという。
こんな事実をわざわざ記したのは、最近になって蓮實重彥が連載時評「些事にこだわり」の第一回「オリンピックなどやりたい奴が勝手にやればよろしい」というエッセイの末尾で、本題からは逸れたエピソードとして、こんな昔話を披露しているのを目にしたからだ。
ここで個人的な記憶を語ることをみずからに許すなら、さいわいなことに、1964年の東京オリンピック騒ぎには悩まされずにすんだ。当時は三年半ほどヨーロッパに暮らしていたからだ。アベベが群衆に見まもられて孤独に走る姿は、ヴェネチアのホテルの白黒テレビでちらりと目にしたが、それを見ているものなどまわりには一人としていなかった。遠い国のできごとだったからだろう。
その翌年にその「遠い国」に戻って来たとき、首都の風景の一変ぶりにはさすがに腹を立てた。高速道路といえば欧州のどこの国でも三車線が常識なのに、東京のそれは狭苦しい二車線でしかなく、しかもそれが既存の大通りの上を蛇行して走っている。その光景は今日にいたるまで大きく変化することはない。生まれ育った六本木では交差点の眺望がそのため惨めに狂ってしまったことには、さすがに激怒した。さらに、東海道の起点である日本橋までが高速道路の橋桁で蔽われていることを知り、愕然とした。これもまたオリンピックのせいだと理不尽に呟くしかなかったのである。
とにかく、わが国には都市行政が不在だとしか思えぬほど、新しい道路のほとんどは、人びとの生活を抑圧していた。家の近くの井の頭線の代田二丁目の駅はいつのまにか新代田と変わっていたが、何が「新しい」のかは誰にもわからなかった。その前を通っていた細いでこぼこ道は滞欧中に環状七号と呼ばれて広い道幅となり、駅にたどり着くのにいつ緑に変わるのかわからない長い赤信号を苛々しながら待たねばならなくなった。それが甲州街道と交わる大原の交差点の近辺は四六時中渋滞が続き、その部分の甲州街道が地下に潜るまで、あたりに漂う排気ガスのせいで喘息患者が大量に発生するほどだった。だから、オリンピックはからだにも悪いのである。
環七といえば、ヨーロッパに向けて発つ数日前の晩に、高円寺に暮らしていた親しい女性と、青梅街道のあたりを散歩していたことが不意に記憶に甦る。それが環七と呼ばれることさえ知らずにいた二人は、青梅街道をまたぐ立体交差の禍々しいコンクリートの橋桁が途切れて月影に映えるさまを見やりながら、オリンピックで東京もひどいことになるだろうと呟きあったものだ。
その女友だちはオリンピックの翌年にヨーロッパに渡り、彼の地の男性と結婚して双子の娘を産み、以後、日本に戻って東京で暮らすことはなかった。つい最近、彼女は、なかば記憶を失ったままこの世を去った。その娘の一人が母親のことを語った小説がフランスで出版されたが、それを読む気にはなれずにいる。ただ、青梅街道を越える未完成の環七の橋桁の月夜の光景を記憶にとどめているのはいまや自分一人しかいなくなったといささか感傷的につぶやきながら、できればオリンピックの「君が代=日の丸」騒ぎからは遠く離れて暮らしたいと願っている。近く八十五歳になろうとしている後期高齢者には、それぐらいの権利が保証されていてもよいはずではないか。
「ヨーロッパに向けて発つ数日前の晩」とあるので、1962年の夏かと推察されるのだが、二十六歳の蓮實重彥青年は「高円寺に暮らしていた親しい女性と、青梅街道のあたりを散歩していた」。
淡々と抑制された筆致だが、このとき彼と彼女は相思相愛の間柄だった――そう思わずにいられない書きぶりである。さもなくば、留学を目前に控えた多忙な時期に、わざわざ夜二人きりで散策などしないだろう。彼女との別離を前にした逢瀬だったのである。
そしてその次の一節は決定的だ。「その女友だちはオリンピックの翌年にヨーロッパに渡り、彼の地の男性と結婚して双子の娘を産み、以後、日本に戻って東京で暮らすことはなかった。つい最近、彼女は、なかば記憶を失ったままこの世を去った。」
これがクリス・マルケルの「不思議なクミコ」こと村岡久美子であるのは確実である。名指しこそしないが、蓮實はそうわかるようにわざわざ書いている。文中「オリンピックの翌年にヨーロッパに渡り」とあるのは、おそらく蓮實の記憶違いで、正しくは翌々年の1966年のことだ。その他の記述については、実際の村岡久美子の足跡とぴたり符合する。
ちなみに「その娘の一人が母親のことを語った小説がフランスで出版されたが、それを読む気にはなれずにいる。」とあるのは、久美子の実娘アンナ・デュボスク(Anna Dubosc)が2016年に上梓した小説 "Koumiko" のことを指す。
「近く八十五歳になろうとしている後期高齢者」が、六十年近くも封印してきた若き日の記憶の一端を、このような形で披瀝した真意は小生にはわからない。だが、わからないなりに、ふと事のついでを装いながら、それが「些事」どころか、どうしても書き残さずにはいられない痛切な思い出なのだと想像するばかりだ。