先日のこと、知友の投稿記事に「成城石井でロクムを買って食べた」とあるのを目にして、もう居ても立ってもいられなくなり、今しがた近所の店で買い求めてきた。
ロクム(lokum)と耳にしても大半の方には「何それ?」であろう。試みにウィキペディアを引くと、「砂糖にデンプンとナッツ(クルミ、ピスタチオ、アーモンド、ヘーゼルナッツ、ココナッツ)を加えて作る、トルコの菓子。マシュリク、バルカン半島、ギリシャの他、欧米でも知られている」とある。
それでも「ふうん」と怪訝な顔をされる向きは、その次の一節をお読みいただきたい。「英語ではターキッシュ・ディライト(Turkish delight――トルコの悦び)と呼ばれる。食感は柔らかく弾力があり、日本のゆべしに似ている」。
ここまで読むと、かなりの読者が「ああ、あれか!」と膝を打つことだろう。「ターキッシュ・ディライト」こそは小生が昔「ナルニア国ものがたり」の第一巻『ライオンと魔女』を読んで出くわし、いつの日か食してみたいと念願したお菓子だったからだ。旧稿から引く。
《中学二年のとき、図書室で偶然手にした「ナルニア国ものがたり」の第一巻『ライオンと魔女』で、「白い魔女」がエドマンド少年を誘惑するために用いるお菓子は、「プリン」と訳されていたが、訳者の瀬田貞二さんは「あとがき」でわざわざこう断り書きをしていた。
――なお訳にあたって、なるべく忠実に原作の意図をうつしとるつもりでかかりましたが、[…]なじみのない品物、たとえばターキッシュ・ディライトという菓子などは、ことさらにまったくちがったプリンに移しかえたことがある点は、ことわっておきましょう。
この註記がひどく気にかかった。「ターキッシュ・ディライト」とは一体どんなお菓子なのだろう。
魔女が子供をかどわかすのに用い、エドマンドがついその甘言に乗ってしまったくらいだから、これはさぞかし美味しい絶品に違いない。
さすがにもう中学生とあって、そのときすぐに手許の英和辞典を引いてみた。
Turkish delight (n.) トルコ菓子[一種のあめ]
う~ん、これでは全然わからないではないか。
ターキッシュ・ディライトとは何か。このとき抱いた疑問はずっと長く解けないまま20世紀最後の年にまで持ち越された。
例に拠って六月をロンドンで過ごした折り、オックスフォード・ストリートの百貨店で土産用の紅茶を物色していて、ふと思い立って隣りの菓子売場でターキッシュ・ディライトを探してみた。
どんな形状をしているかわからず、見付けるのにちょっと手間取ったが、おお、箱に入ってちゃんと棚に鎮座しているではないか! 間違いない、派手なパッケージにたしかに "Turkish Delight" と書いてある。さっそく手に取り、抱きかかえるようにしてレジへ走った。同行の友人も「ナルニア」の読者だったから、小生のいささか度を超した昂奮を理解してくれたと思う。
地下鉄のなかで、我慢しきれずに思わずパーケージを開けてしまう。行儀が悪いのは承知のうえでのこと。ホテルに戻るまで待ちきれなかったのだ。
なかからは白い粉砂糖にまみれたサイコロ状の物体がごろごろ。ゼリーのような、餅のような、柔らかな感触。どぎつい濃紅、緑などの人工的着色にちょっと恐れをなしたが、抗しきれぬ誘惑に負けてひとつぶ口に運ぶ。
こ、これは、な、なんだ…。
お、おそろしく甘い。ただただ甘いばかりで、美味しくもなんともない。ねっとり、にちゃにちゃと歯にまとわりつく感触が気色悪いったらない。
う~む、これが永いこと待ち続けた憧れのお菓子なのか! はるばる倫敦までやってきて、ようやく探し当ててみたら、ああ、百年の恋も一瞬にして色褪せる。何が「トルコの歓び」なものか! これが美味しいと感じるようでは、英国人の舌はやはりどうかしている…。
ところで、小生たちは地下鉄でバービカンへ赴こうとしていた。ローリー・アンダソンの公演があるのだ。それなのに列車は一向に到着しない。
はっと気づいた。われわれは反対方向の列車に乗ってしまったのだ。ひょっとして、これこそ白い魔女の呪いなのだろうか。
慌てて乗り換えてどうにか開演に間に合ったからいいものの、このときの騒動で、ターキッシュ・ディライトの箱をどこかに置き忘れてきたことに気づいた。まだ中味はずいぶん残っていたはずだが、一向に惜しくはなかった。》
そんな次第で、夢にまで見た「ターキッシュ・ディライト」は、ただ甘ったるいだけの、お世辞にも美味しいとは言えない代物であった。
ただし、このとき一抹の疑念、というか、ほんのわずか未練が残った。あのとき小生が口にした菓子は、あまたあるターキッシュ・ディライトのうちで、ことさら品質の劣る銘柄だったのではないか、ひょっとしてトルコ製の本物は、それこそ魔女に魂を譲り渡すほど美味なのではないか、と。
爾来二十年、とうとうわが目前に本場もののターキッシュ・ディライト、もとい「ロクム」の現物が姿を現したのである。それもひとつではない。ピスタチオロクム、ローズ・レモンロクム、ザクロ&ピスタチオロクムの三種類なのだ。
色鮮やかなパッケージにはこう記されている。
《ロクムとは「天才たちのスイーツ」と呼ばれるトルコの有名な伝統菓子で、欧米では "ターキッシュディライト" という名前で親しまれています。
もちもちした食感が特徴。ほんのり甘くナッツやフルーツで味付けされた、小さなキューブ型のお菓子です。》
製造元は "divan" というトルコの老舗らしい。
《divan(ディヴァン)とは、1956年創業、トルコ・イスタンブール発の高級菓子ブランド。優雅な味を叶えるために、最高級の厳選素材を使用。甘さの中に感じられる繊細さと、なめらかな食感こそが、トルコを代表する菓子ブランド divan の特徴です。》
読んでいるそばから、口内に涎が溢れてくる。白い魔女の呪いだろう。三時のおやつ時が待ちきれない。