一転して今朝はドイツ語の歌曲を聴く。いちいち対訳に頼らねばならないのが歯痒く厄介なところだが。
"Clair-Obscur: Sandrine Piau -- Strauss - Berg - Zemlinsky"
ツェムリンスキー:
森での対話 (アイヒェンドルフ詩)
シュトラウス:
明日!(マッケイ詩)
わが子に (ファルケ詩)
ベルク:
《七つの初期の歌》
■ 夜 (ハウプトマン詩)
■ 葦の歌 (レーナウ詩)
■ 夜鶯 (シュトルム詩)
■ 夢を抱いて (リルケ詩)
■ この部屋で (シュラーフ詩)
■ 愛の讃歌 (ハルトレーベン詩)
■ 夏の日々 (ホーエンベルク詩)
シュトラウス:
《四つの最後の歌》
■ 春 (ヘッセ詩)
■ 九月 (ヘッセ詩)
■ 眠りに就こうとして (ヘッセ詩)
■ 夕映えに (アイヒェンドルフ詩)
葵 (ヴェールリ=クノーベル詩)
ソプラノ/サンドリーヌ・ピオー
ジャン=フランソワ・ヴェルディエ指揮
ヴィクトール・ユゴー・フランシュ=コンテ管弦楽団
2020年3月、ブザンソン地方音楽院(CRR)楽堂
Alpha 727 (2020)
フランスの歌姫サンドリーヌ・ピオーの新作がドイツ歌曲アルバムと知って、ちょっと意表を突かれた。
だが、これはピオーが長年にわたり歌いたかった念願のジャンルなのだという。解説書の冒頭で彼女自身こう明かしている。「ずっと長いこと古楽に専念してきて、誰もが私に期待しないようなレパートリーと取り組むのが私の宿願だったのです」と。
冒頭がツェムリンスキーで開始されるのは、作詞がアイヒェンドルフだから。ピオーの言葉を借りると「このディスクはアイヒェンドルフに始まり、アイヒェンドルフで終わる。発端は夜。ローレライの魔の手から逃れようと必死に馬で走る。だがそれも空しく・・・」。
続くのは若きシュトラウスの歌曲二つ。朝の清々しさ。そして情愛に満ちた子守唄。
そのあとのベルクの歌曲集では光と影とが交錯する。これが二十代初めに書かれたことが肝心だ。なぜなら、その次に控えるシュトラウスの歌曲集が「最後の歌」だからだ。青春と老境。ここでもやはり光と影とが意識され、対比される。
シュトラウスの連作がアイヒェンドルフ詩で締めくくられたあと、アンコールふうにもう一曲「葵」が歌われる。シュトラウスの本当に最後の「遺作」である。
このようにアルバム全体が光と影に彩られ、若さと老い、始まりと終わりの対比が常に意識される。シュトラウスの《四つの最後の歌》の歴代のアルバムで、ここまで綿密に構想され、完璧に選曲された例はひとつもなかったと断言できる。なにしろ小生の手元には百四十種の録音があるのだ。
ピオーがドイツ歌曲を歌うのが少しばかり気がかりだったのだが、懸念は杞憂に終わった。どこにも違和感はなく、ディクションも表現の細やかさも(小生の不確かな耳で聴く限り、の条件付きだが)全くもって申し分ない。
よくよく考えてみたら、彼女はかつて "Évocation" という歌曲アルバム(仏Naïve, 2007)で、ショーソン、ドビュッシー、ケックランとともに、シュトラウス、ツェムリンスキー、シェーンベルクの歌を採り上げていたのだ。心配する小生のほうがどうかしていた。
録音風景と彼女のメッセージの動画をご紹介しておこう。