2011年3月11日。あの日は地下鉄で早稲田まで出向いて昼食を摂り、早大の演劇博物館で「コレクションに見るロシア演劇のモダニズムとアヴァンギャルド展」を観たあと、夕方からシンポジウム「日本とロシア」が開催される国際交流基金(四谷三丁目)へ移動しようと、早稲田通りまで戻って信号待ちをしているところだった。
不意に足元から突き上げるような衝撃を覚えると、目の前で信号機と電柱が激しく揺れている。間近にある蕎麦屋「三朝庵」をはじめ、周囲の建物という建物が悲鳴のような軋み音を上げ始めた。
咄嗟に「とうとう東京に大地震がきた」と直覚し、「ビルからの落下物を避けなければ」とじりじり後ずさり。背後にある寺「龍泉院」の境内に足を踏み入れると、水盤が波だって溢れている。とりあえず安全そうな場所であるのを確認し、その場に立ちすくむこと五分ほど。ひとまず揺れは収まった。
その場で携帯から自宅に電話をかけるが繋がらない。ふと周囲を見回すと、建物から飛び出した人々が誰も彼も、路上でこぞって携帯を手にしている。これでは通じるはずがないと諦め、とりあえず目的地の四谷三丁目まで歩くことにした。もちろん頭上と足元に細心の注意を払いながらだ。
途中で何度か余震があり、外壁が剥がれた家や崩れた塀もあちこちで目にしたが、甚大な被害というほどではない。なので、この時点では「大したことはなさそう」と多寡を括っていた。まだラジオやTVなどの最新情報は耳にしていない。
■ ヘルメットに防災頭巾
途中の道順はかなり当てずっぽうだったが、東京女子医科大学病院の傍を通ったとき、看護婦に付き添われた大勢の入院患者が戸外に一時避難している異様な光景を目にした。
都営線の曙橋駅の脇を抜けて荒木町方面へ。一時間ほどかけて、目的地の四谷三丁目の国際交流基金ビルに到着した。
案じていたとおり、五時からのシンポジウムは中止とのことだ。鴻野わか菜さんら講師がここまでたどり着けず、しかも会場となるホールの壁が崩落してしまった――係員からそう聞かされて、思わずギョッとした。「これは想像した以上に大きな地震らしいぞ」と。
とにかく千葉の自宅に帰りたいと思った。こんなとき地下鉄は怖いので、とりあえずJRの四谷駅を目指して歩き出すと、小生とは逆方向、つまり新宿方面へと向かう人波が圧倒的に多い。そのことから「ははあ、JRは総武線も中央線も動いてないな」と察した。
歩いているとヘルメットを被ったサラリーマンやOL、防災頭巾姿の小学生たちともすれ違い、非常時のただならない雰囲気が漂う。「これはおおごとだ」と、いよいよ全身に緊張感が走った。
到着してみると、やはりJR四谷駅は改札が閉鎖されている。たまたま流れていた駅構内のTVで、初めて大地震の報道に接した。ただし、この時点では情報は錯綜し、津波の第一報もまだだったかと思う。
駅前に公衆電話があったので行列して自宅にかけてみると、繋がりはしたが家人は不在である。とりあえず伝言で無事を伝えた。
■ 段ボールの寝心地を知った
このまま四谷駅前に屯していても無意味なので、土手沿いに市ヶ谷、飯田橋と一駅ずつ歩いた。「少しでも千葉に近づこう」という意識が働いたのである。
飯田橋駅のTVで、都内のすべての電車が停まっていると聞かされ、この段階でいよいよ腹を括った。これはもう帰宅できないぞ、と。
周囲はすでに暗いし、寒くなってもきた。
時計をみると七時。歩き疲れて喉も渇いたし腹も減った。今のうちに食べておこうと駅脇のショッピングビル 「RAMLA(ラムラ)」一階のタイ料理屋「ティーヌン」で夕食を摂った。
一時間ほどして店を出ると、ビルの一階の床には手回しよくブルーシートが敷かれ、希望者に段ボールを配布している。「まあいいや、ここなら雨風が凌げる」とあっさり観念して、段ボールを貰い、靴を脱いでその場にしゃがみこんだ。
傍らの公衆電話がようやく自宅に繋がり、互いの無事を確かめあうと「今夜は飯田橋で夜明かしする」とだけ告げて、自分の場所に戻ったらごろりと横臥。段ボールの寝心地を初めて知った。