まずはこれをお読みいただこう。昨年の5月11日の投稿記事。
DIC川村記念美術館で開催中の「ジョゼフ・コーネル コラージュ&モンタージュ」展を観るのは実にこれが四度目だ。同展には拙コレクションからもささやかな資料を十点ほど出品しており、カタログの編集作業の一端も担っている(まだ校閲のさなかである)ので、純粋な鑑賞の悦びに徹する来訪者というわけではないが、それでも一堂に会したコーネル作品を仔細に眺める愉しみは何物にも代えがたい。
午後一時半から美術館のレクチャー・ルームで横田茂さんの講演会がある。言うまでもないが、横田さんは日本におけるジョゼフ・コーネルの紹介者として大きな足跡を残されている。自らの画廊(まず日本橋の雅陶堂ギャラリー、のちに竹芝の横田茂ギャラリー)でコーネル展を何度も催し、多くの作品を国内の美術館や蒐集家のもとにもたらした。
とりわけ1978年3月に開催した日本初のコーネル展示「Seven Boxes by Joseph Cornell」は劃期的な意義を有し、そのとき招来された七つの箱作品はやがて川村記念美術館の所蔵となり、今日のコーネル人気の端緒を開いた記念碑的な作品群である。
会場となる部屋はささやかなスペースで定員六十名。午後一時の開室とともに入室すると瞬く間に席が埋まる。事前予約ですでに満員なのだといい、小生は早々と申し込んでおいた。横田さんは少し前に体調を崩されたというが、思いのほかお元気そうだ。小生は四半世紀以上前の1992~93年に開催された「ジョゼフ・コーネル展」の担当学芸員として、大いに横田さんのお世話になった一人である。
一時半きっかりに始まった講演では、まず日本に所蔵されるコーネル作品の総数が八十余点(箱が三十余、コラージュが五十余、フィルムが十一本)あり、米本国に次ぐ点数であるとしてうえで、その多くが横田さんご自身によってもたらされたことが淡々とした口調で明かされる。
最初の展示から四十余年、これまでに至る展覧会の歴史が時系列で語られたあと、話はいよいよ核心に迫り、若き日の横田さんとコーネルとの運命的な邂逅(「コーネルのコの字も知らぬまま作品と偶然に出逢って、よほど自分の性に合っていたのだろう、大いに心惹かれた」とのこと)、そして七つの箱を選んで日本初の展覧会を日本橋の画廊で開催する経緯が物語られた。
「何も七点と限ったわけではないが、鳥、宇宙、ホテル、メディチの子供、砂などのテーマに沿って、なるべく納得のいく、自分がいいと思えたものを選んだ」「1977年にヒューストンのライス・ミュージアムで開かれたコーネル展を観て、その出品作からも、ぜひこれを、というものを検討した」。
1978年の展覧会「七つの箱」では、カタログにぜひ瀧口修造に執筆してもらおうと白倉敬彦さんに紹介してもらい、まず作品を観てもらった。「瀧口さんはすでにコーネルのことを知っておられ、じっくりご覧になると、大変な熱の入れようで、一点一点の箱についてカタログに短い評までお書きになった」「これらの作品をなんとか日本に残したいという気持ちを強くもたれた」。
この展覧会には美術館の関係者はほとんど観に来なかったらしいが、たまたま来訪した彫刻家の飯田善國氏が作品をいたく気に入った由。「飯田さんはそれまでコーネルを知らなかったのですが、良さがパッとわかって、大日本インキの川村勝巳さんに相談した。日本橋のDICビルの地下にあった吉野鮨で飲みながら、頃合いを見計らって切り出すと、〈いいよ〉との返事をもらった」。
このあたりのいきさつは小生も別ルートで聞かされてはいたのだが、当事者の言葉でじかに語られるとリアリティがひしひしと伝わる。1980年の前後、飯田善國とそのパトロンである川村勝巳とは来るべき「20世紀美術館」(川村記念美術館のこと)の開設に向けて、コレクション蒐集に努めていたのである。
ここで客席から神奈川県立近代美術館学芸員の朝木由香さんが登壇され、「瀧口修造によるコーネル受容」と題して興味深い事実を明かされた。
瀧口は山中散生とともに1937年に東京、京都、大阪、名古屋、金沢を巡回した「海外超現實主義作品展」を開催しており、そこにコーネル作品が含まれていないにもかかわらず、刊行された出品目録の解説文「シユルレアリスムと紐育」で瀧口は米国におけるシュルレアリスムの実践者としてコールダー、コーネルの名をあげ、コーネルのコラージュ作品《無題(ミシンと女)》(1931)の図版をわざわざ掲載しているのだという。
驚いたことに、1937年にニューヨーク近代美術館初代館長アルフレッド・バーJrから山中宛に届いた書簡に「アメリカのシュルレアリスト関連の写真を送るようジュリアン・レヴィに依頼した」旨が記されているという。瀧口と山中がアメリカでのシュルレアリスム運動にも関心を寄せていた証であり、上記の出品目録に載ったコーネルのコラージュ作品の図版は、ジュリアン・レヴィの先駆的著作 "Surrealism" (1936) から複写されたと考えられるとのこと。瀧口がこのレヴィの本でコーネルの存在を知ったのは間違いない由。
瀧口が情報源としたレヴィの "Surrealism" は残念ながら空襲で焼失してしまったが、本展にはまさにその同じ本が拙コレクションから出品されている。装丁をコーネルが手がけ、なかに上述したコーネルのコラージュの図版と、コーネル執筆の映画シナリオ『フォト氏』まで掲載された曰くつきの書物である。ちなみに本書にはレヴィから詩人ポール・エリュアールに宛てた献辞がペン書きされたエリュアール旧蔵本である。
再び横田さんの講演に戻ると、コーネルの七つの箱を購入するにあたり、川村勝巳はいったんは内諾したものの、周囲には「あんな蜜柑箱みたいなものは要らないよ」と反対の声もあり、「買ってもいいが、この価格が正当であることを証す書面をよこせ」と横田さんに求めてきた。
なにしろコーネルは日本では全く知られておらず、横田さんとて三十そこそこの駆け出しの画商に過ぎなかった。困りきった横田さんが瀧口修造に相談すると、彼は即座に「私が書きます」と応じ、「美術評論家連盟の会長を務めた私が価格証明をします」と申し出たそうだ。
瀧口修造は1973年のデュシャン回顧展に招かれて渡米した際、関係者にジョゼフ・コーネルの消息を尋ねて、前年末に彼が歿していたのを知り愕然としたという。瀧口とコーネルはともに1903年12月の生まれであり、瀧口はどうやらコーネルのことを同じ星の下に生まれた精神的兄弟と看做していたらしい。
1978年に横田さんの雅陶堂ギャラリーで初めてコーネルの七つの箱が展示され、瀧口夫妻だけを招いて特別な内覧の場が設けられたとき、瀧口はそっと箱のひとつを撫でながら、「こんな仕事をするから、早く死んじゃうんだ」と呟かれたそうだ。その瀧口もまた、翌79年に歿してしまう。
同展カタログに瀧口が寄稿したエッセイは「時のあいだを ジョゼフ・コーネルに」と題されていた。そこには1937年から1978年まで、四十一年に及ぶ時の隔たりが含意されていたに違いなく、互いに相まみえることなく終わった異国の兄弟への親愛と哀惜の念が滲んでいよう。
その記念すべき1978年からさらに四十一年が過ぎた今、その最初の「七つの箱」を核として新たに「ジョゼフ・コーネル コラージュ&モンタージュ」展がここDIC川村記念美術館で開催されたことに、単なる偶然ではない天の配剤をひしひしと感じずにいられない。
・・・とまあ、メモを頼りに、かなり詳しく紹介したつもりだが、目を瞠るようなレクチャーの内容の一端をかい摘んで書き留めたに過ぎないし、会場の張りつめた、それでいて親密な雰囲気まではとても再現できていない。
この歴史的な、と呼んでもいい講演をきちんと記録し、活字にして残すべきではないか――そう思った小生は、展覧会担当者に進言したりもした。このまま忘れ去られてしまうには、あまりにも惜しい濃密な時間だったからだ。
あれから一年半が過ぎ、DIC川村記念美術館の手で、この記念すべきレクチャーが書籍化された。題して『ジョゼフ・コーネルと日本――「ふたつの時間」をたどる』。
当日の横田茂さんと朝木由香さんの講演を細大漏らさず採録し、多くの図版とともに収載した美しい一冊である。夏から編集作業に入り、12月10日めでたく刊行された。お手伝いした小生の手元には昨日いち早く届いたが、いずれ美術館で入手可能になるとのこと。コーネルを愛する方々にとって、間違いなく必携の書物となるだろう。
ジョゼフ・コーネルと日本――「ふたつの時間」をたどる