ジョージ・バーナード・ショーの戯曲《ピグメイリオン Pygmalion》(1913/14初演)からアラン・ジェイ・ラーナー&フレデリック・ロウのミュージカル《マイ・フェア・レディ》(1956初演)が生まれるまで、四十年の紆余曲折のなかで最も重要な結節点が、ショー自身も脚本家のひとりとして加わった映画《ピグマリオン》(1938公開)だったのは疑うべくもない。
英語の正しい発音を学ばせるレッスン "The rain in Spain stays mainly in the plain..." はこのとき考案された台詞とシークエンスだし、汚れたイライザを入浴させて綺麗にするくだりや、豪華な舞踏会やアスコット競馬場の場面も原作戯曲にはなく、映画化に際して新たに書き加えられた。かつてヒギンズの教え子で、企みを見破ろうとするカルパシーなる言語学者も、この映画で初めて登場する。
なによりも、一旦は決裂しかけたイライザとヒギンズが最後には和解するハッピー・エンドの結末が導入されたことは――その成否はひとまず措くとして――きわめて重要であり、そのプロットを継承した《マイ・フェア・レディ》を成功に導く鍵となった。
映画版《ピグマリオン》の主要スタッフ&キャストを記しておこう。
脚本/ジョージ・バーナード・ショー、W・P・リップスコーム、セシル・ルイス
このイギリス映画は日本では未公開だが、京橋の旧フィルムセンターにプリントがあり、今では安価なDVDで容易に観ることができる。しばしば問題となるエンディングの数シークエンスを採録してみた。
■ 1938年 映画版 *DVDより聞き取り&拙訳
HIGGINS. By George, Eliza, I said I'd make a woman of you; and I have. I like you like this.
ELIZA. You make up to me now that I'm not afraid and can do without you!
HIGGINS. Of course I do, you little fool! Five minutes ago, you were a millstone around my neck. Now, you're a tower of strength, a consort battleship.
ELIZA. Good-bye, Professor Higgins. [She runs out. ]
[Horn honking. Higgins looks out of the window. Eliza runs away with Freddy in his car. Higgins walks around the streets, searching her in vain. He returns in his room.]
[Higgins angrily breaks one of his disks and unwarily switches on the recording machine.]
ELIZA'S VOICE. Ah-au-ow-oo, I ain't dirty! I washed my face and hands before I come, I did!
HIGGINS' VOICE. I shall make a duchess of this draggle-tailed guttersnipe. In six months, in three...
ELIZA. [appeared at the door, she speaks proper English] I washed my face and hands before I come... I did.
HIGGINS. [leaning on his chair] Where the devil are my slippers, Eliza?
ヒギンズ まさしく、イライザ、僕は君を一人前の女にすると口にし、そして実行した。僕はそうなった君が気に入ってる。
イライザ そうなったからにはもう、あんたなんか怖くないし、あんた抜きでやっていける!
ヒギンズ もちろん、そうするさ、この馬鹿娘め! 五分前の君は僕の首に下がる碾臼みたいに重荷だった。それが今や、頼り甲斐のある存在、味方の戦艦さ。
[クラクションの音。ヒギンズが窓から見ると、イライザはフレディの車で走り去る。彼女を探して空しく街路を歩き回るヒギンズ。彼は自宅に戻る。]
[ヒギンズは研究室で癇癪を起こして録音盤を一枚叩き割り、はずみで録音機のスイッチに触れる。]
イライザの声(録音) あー、おー、おう、うー。汚かねえぞ! こちとら来る前にちゃんと顔も手も洗ってきたんだ!
ヒギンズの声(録音) 僕はこの汚らしい浮浪児を伯爵夫人に仕立ててみせる。六か月、いや三か月で・・・
イライザ(戸口に現れ、正しい英語で)私は来る前に顔も手も洗ってきましたわよ・・・。
ヒギンズ(椅子に背をもたせて)僕のスリッパは一体全体どこにあるんだ、イライザ?
イライザがヒギンズに愛想を尽かして出て行ってしまうくだりは、原作戯曲ではヒギンズ夫人と一緒に父ドゥーリトルの結婚式に出席するという設定だったが、ここでは言い争いのあげく単身ぷいと出て行き、フレディが運転する自動車で走り去る。
ただし、ここで発せられる両者のやり取りは、「僕は君を一人前の女にすると口にし、そして実行した」も「あんたなんか怖くないし、あんた抜きでやっていける!」も「五分前の君は僕の首に下がる碾臼みたいに重荷だった。それが今や、頼り甲斐のある存在、味方の戦艦さ」も、すべて元のショーの戯曲の終幕にあるものだ。
イライザが去ったあと、ヒギンズがあてどなく街をさまようシークエンスと、最後に研究室で蓄音機から流れてくる声に耳を傾けるくだり、そして大団円の再会と和解の場だけが映画版の独創である。最後の二人の会話「来る前に顔も手も洗ってきた」「僕のスリッパは一体全体どこにあるんだ、イライザ?」が、そっくりそのまま《マイ・フェア・レディ》のラストに生かされたのは言うまでもない。
比較のために、1912年に書かれた戯曲の初版(1916年刊)からも、大詰めの場面を書き写しておく。1914年のロンドン初演時に大田黒元雄が観劇した際、エンディングはさらに少し変更されていたらしいのだが。
たいそう不思議なことに、この最初の版はこれまで一度も邦訳されたことがないので、ここで試みに訳してみる。
■ 1916年版 *プロジェクト・グーテンベルク版より拙訳
LIZA. Then I shall not see you again, Professor. Good-bye. [She goes to the door].
MRS. HIGGINS [coming to Higgins] Good-bye, dear.
HIGGINS. Good-bye, mother. [He is about to kiss her, when he recollects something]. Oh, by the way, Eliza, order a ham and a Stilton cheese, will you? And buy me a pair of reindeer gloves, number eights, and a tie to match that new suit of mine, at Eale & Binman's. You can choose the color. [His cheerful, careless, vigorous voice shows that he is incorrigible].
LIZA [disdainfully] Buy them yourself. [She sweeps out].
MRS. HIGGINS. I'm afraid you've spoiled that girl, Henry. But never mind, dear: I'll buy you the tie and gloves.
HIGGINS [sunnily] Oh, don't bother. She'll buy em all right enough. Good-bye.
[They kiss. Mrs. Higgins runs out. Higgins, left alone, rattles his cash in his pocket; chuckles; and disports himself in a highly self-satisfied manner.]
イライザ では、もうお目にかからないでしょう、教授。ご機嫌よう。(ドアの方へ向かう)
ヒギンズ夫人(ヒギンズに近づいて)じゃあ出かけるわ。
ヒギンズ 行ってらっしゃい、お母さん。(母にキスしようとして、何か思い出す)そうだ、イライザ、ついでにハムとスティルトン・チーズを注文してくれないか? それにトナカイの手袋、八号のと、僕の新品のスーツに合うネクタイを、イール&ビンマンの店で買っておいてくれ。色は君に任せる。(陽気で、呑気で、元気のいい声は、彼の手に負えない性格を表す)
イライザ(軽蔑して)ご自分でお買いになって。(さっと退出)
ヒギンズ夫人 ヘンリー、あなたはあの子を甘やかしたんじゃないかしら。でも気にしないで。ネクタイと手袋は私が買うから。
ヒギンズ(陽気に)いや、お構いなく。あの子はちゃんと買ってきますから。では行ってらっしゃい。
[二人はキスする。ヒギンズ夫人は退出。ひとり残ったヒギンズはポケットの小銭をじゃらつかせ、ほくそ笑む。そして、たいそう満足げにくつろぐ。]
ご覧のとおり、実にあっさり素気ないものだ。ヒギンズはイライザにこまごまと買物を頼むのだが、彼女を無視したまま、プイと出て行ってしまう。ヒギンズはイライザがたた外出するだけだと信じ込んでいる。そして、そのまま幕になる。
イライザが戻ってくるのかどうか、まして彼女が誰と結ばれることになるかは、判然としないままの曖昧なエンディングだ。観衆諸賢よ、あとはお察しあれ、といったところか。
最後に、1938年の映画版が自らの与り知らぬ不本意なエンディングで世に出たことにショックを受けたバーナード・ショーが、それをきっぱり打ち消す意図から、翌39年に急いで改訂した「最終決定版」(1941年刊)――これが今も流通する現行版である――から、新たに書き改められたエンディングを引いておく。出典は光文社古典文庫版(2013年)、訳者は小田島恒志。
ヒギンズがイライザにいろいろ買物を頼むくだりまでは、初版とほとんど同一。そのあとイライザが長台詞で応酬するところからあとが改訂箇所だ。
最後の台詞で、ヒギンズが「フレディ」の名をくどいほど繰り返すのは、「映画のようなハッピー・エンドはあり得ない」と強調する原作者の頑固な意思表示にほかならない。これには些か鼻白むばかりだ。
■ 1941年版(1939年11月完成) *現行版
LIZA. Then I shall not see you again, Professor. Good-bye. [She goes to the door].
MRS. HIGGINS [coming to Higgins] Good-bye, dear.
HIGGINS. Good-bye, mother. [He is about to kiss her, when he recollects something]. Oh, by the way Eliza, order a ham and Stilton cheese, will you? And buy me a pair of reindeer gloves, number eights, and a tie to match that new suit of mine. You can choose the color. [His cheerful, careless, vigorous voice shews that he is incorrigible.]
LIZA. [disdainfully] Number eights are too small for you if you want them lined with lamb's wool. You have three new ties that you have forgotten in the drawer of your washstand. Colonel Pickering prefers double Gloucester to Stilton ; and you don't notice the difference. I telephoned Mrs. Pearce this morning not to forget the ham. What you are to do without me I cannot imagine. [She sweeps out.]
MRS HIGGINS. I'm afraid you've spoilt that girl , Henry. I should be uneasy about you and her if she were less fond of Colonel Pickering .
HIGGINS. Pickering ! Nonsense: she's going to marry Freddy. Ha ha! Freddy! Freddy!! Ha ha ha ha ha!!!!!
[He roars with laughter as the play ends.]
イライザ それじゃもう、お目に掛かりませんわね、教授。ご機嫌よう。(ドアのところへ行く)
ミセス・ヒギンズ(ヒギンズに近寄って)じゃあ、行ってきます。
ヒギンズ 行ってらっしゃい、お母さん。(母親にキスしようとして、何か思い出す)あ、そうだ、イライザ、ハムとスティルトン・チーズを注文しといてくれないか? それから、トナカイの手袋、八号のやつと、僕の新しいスーツにあうネクタイを一本。色は君に任せる。(彼の陽気で、無頓着で、元気な声は、彼が救い難い人間であることを示している)
イライザ(軽蔑するように)羊毛の裏地がついているのがよければ、八号じゃ小さすぎます。ネクタイは新しいのが三本、洗面台の引き出しに入れたまま、忘れておいでです。ピカリング大佐はスティルトンよりグロスター・チーズの一級品がお好きです。あなたに違いはお分かりにならないでしょうけど。ハムは、忘れないように今朝ピアスさんに電話で念を押しときました。私がいなくなったら、どうなさるおつもりでしょう、想像できませんわ。(さっと出て行く)
ヒギンズ夫人 ヘンリー、あの子のこと、ちょっと甘やかしたようね。あの子はピカリング大佐の方が好きなようだからいいけど、そうでなければあなたとあの子がうまくやっていけるか心配になるところですよ。
ヒギンズ ピカリング! 何言ってんですか! あいつはフレディと結婚するんですよ。はっ! はっ! フレディですよ! フレディ!! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!!!!!