1920~30年代のロシア児童文学を考えるうえで、子供たちを読者とする月刊誌が果たした役割を見逃してはならない――多くの研究者が口を揃えてそう強調する。関西で地道な活動を続ける「カスチョールの会」では、ロシア絵本の隆盛の母体となった児童雑誌について共同研究を続けるとともに、レニングラードで刊行された二つの月刊誌『針鼠(はりねずみ/ヨーシ)Ёж』と『真鶸(まひわ/チーシ)Чиж』の創刊号を丸ごと邦訳・覆刻している。
「これら児童雑誌において新しい児童文学のあるべき姿を探る様々な実験が行われ、新しい作品が次々に生み出された。多くの人たちに感銘を与えた『幻のロシア絵本』展で紹介された作品の多くは、こうした児童雑誌の中から生まれたのだ」(『ハリネズミ』創刊号の完訳復刻版の解説より)。
ロシア語を碌に解さない小生にとって、それらの雑誌は「猫に小判」「豚に真珠」、宝の持ち腐れになりかねないので、なんとなく敬して遠ざけてきた。それでもパリの古書店主に奨められるまま、いつしか手元には十数冊が集まっている。
今日ここに紹介するのは、そうした児童雑誌の一冊だが、珍しいことに東京の古書店で見つけた。ただし刊行年代(1929年)から考えて、32年創業の「ナウカ社」が輸入・販売したものとは考えにくく、なんらかの特別なルートで持ち込まれたと想像される。
その名を月刊誌『火花(イスコルカ)Искорка』といい、モスクワの出版社「働くモスクワ Рабочая Москва」から1924年から30年まで刊行された。その後は版元を「若き親衛隊 Молодая гвардия」「農民新聞 Крестьянская газета」と変えて1933年まで存続した由。手元にあるのはその1929年6月号である。
⇒これ判型は27.6×19.6センチ、A4判を少し小さくしたサイズで、表紙を除いて全二十四頁。売価は四十コペイカとある。
中身はフェドルチェンコの詩と散文、グリヤンの散文、バルトーの詩のほか、絵だけの頁、自然観察の記事、初級ドイツ語入門らしき頁まであって盛り沢山で変化に富む。随所に一色ないし二色刷りの挿絵が入り、イラストレーターとしてデイネカ、コズローワ、フェインベルグらの名が記されている。いずれも当時モスクワで刊行されたロシア絵本によく出る名前である。やがてソ連の市民生活をのびのびと描いて一家をなす画家アレクサンドル・デイネカは、当時はもっぱら児童書の領域で活躍していたのだ。
例によって、旧蔵者と入手経路を知りたいところだが、幸いなことに表紙に Yamanouti と読めるペン字の書き込みがある。
この「ヤマノウチ」なる人物は、ほかにも鉛筆で雑誌タイトルの下に "iskorka" と添え書きし、あちこち記事の標題にもローマ字で書き込みしている。それらは明らかにロシア語をほとんど解さぬ者の手になるものだ。旧蔵者は言葉が不如意なまま、旅行者もしくは短期滞在者としてソ連に赴いた誰かだと考えられる。
この時期、すなわち1929年夏に訪ソした「ヤマノウチ」といえば、映画俳優の山内光(やまのうちひかる)がまず思い出されよう。のちに本名の岡田桑三(そうぞう)として「東方社」を率い、原弘や木村伊兵衛らを擁して潤沢な国策宣伝誌『フロント』を刊行することになる人物だ。彼はこの年、映画界視察の名目で松竹からモスクワとベルリンに派遣されていた。
山内光は新妻の田鶴子を伴って29年8月モスクワに着き、短期間のベルリン訪問を挟んで11月までモスクワに逗留した。その間にエイゼンシュテインやプドフキンらと親交を深め、エイゼンシュテイン監督作品《全線――古きものと新しきもの》初号試写を観た。
モスクワのヴォークス(ВОКС 対外文化連絡協会)の斡旋により、山内夫妻はこのほか《ストライキ》や《戦艦ポチョムキン》、プドフキンの《母》《アジアの嵐》、アブラム・ロームの《ベッドとソファ》《戻らざる幻》、イワン・プラヴォフの《リャザンの女》など、当時のソ連映画の名作に数多く接することができ、短期滞在だったわりに出張の成果を上げることができた。
田鶴子夫人にはソ連の児童文化の視察という目的もあったらしく、「ピオニール全露同盟大会」を訪れ、児童劇場の主宰者ナターリヤ・サーツにインタヴューしたほか、11月には彼女のモスクワ児童劇場で《黒人の坊やと猿 Негритёнок и обезьяна》を観劇したほか、モスクワ市内の託児所を見学したりした。
このような周辺情報を考え併せると、この児童雑誌《火花》は山内夫妻がモスクワから持ち帰ったものとみて、まず間違いなさそうである。表紙に記された Yamanouti の署名を夫妻どちらが記したのかは、岡田桑三の他の旧蔵書を調べればいずれ判明するだろう。