今日のロシア絵本はその来歴も旧蔵者も皆目わからない。そもそも、この一冊がどのようにして日本に到来したのかが謎なのだ。
ウラジーミル・マヤコフスキー(詩)
ナターリヤ・ウシャコーワ(絵)
怠け者ヴラスの物語 История Власа лентяя и лоботряса
無刊記(1927年)
すでに何度か述べたように、わが国にロシア絵本がもたらされた正規ルートは1932年4月に開店した「ナウカ社」経由だったので、ほぼすべての絵本の刊行年度は1930年以降である。しかるに、この絵本の出版は、関連文献によれば1927年であり、日本で目にする絵本としては例外的に早い時期の一冊なのだ。
だから、三年前に本書が某オークションに出品されたときは、その意外さに思わずわが目を疑ったものである。そのときの拙文を引く。
今しがた凄い珍品をネットオークションで落札した。
詩人ウラジーミル・マヤコフスキーが子供のためにテクスト(詩)を書いた『怠け者ヴラスの物語』というロシア絵本である。刊行年代は記されていないが、1927年かと推察される(マヤコフスキーは1930年に自殺)。画家はナターリヤ・ウシャコーワ。
マヤコフスキーは子供の本の優れた書き手でもあり、『何になるか? Кем Быть?』『海と灯台についての私の本 Эта книжечка моя про моря и про маяк』など数冊の秀逸な絵本が知られているが、そのなかでこの一冊はかなり珍しいものだと思う。これまで小生は、関西の画家で[1929年と31年モスクワに滞在し]ロシア絵本を日本にもたらした功績者である小西謙三の遺品のなかで見ただけだ。
こんな超稀少な逸品がひょいと出品されてしまうのだから、わがニッポン国の某オークションはそら恐ろしい。
オークションで何よりも怖いのは、競合者が現れるか否かで、価格がどこまで競り上がるか、まるきり予測がつかないことだ。
今回も締切時刻ぎりぎりまで待って、こわごわ入札したが、幸いなことに誰も存在に気づかなかったようで、最低価格の八百円でつつがなく落札。本来ならば桁が二つ違うはずだ。1920~30年代のロシア絵本は今では数万円するのが当たり前、ましてマヤコフスキーの初版本となると・・・。(2017年11月9日)
改めて補足すると、これは革命詩人ウラジーミル・マヤコフスキーが子供のために書いた絵本である。水野忠夫の労作『マヤコフスキー・ノート』(中央公論社、1971)の巻末年譜によれば、まず詩だけ先に1927年1月に雑誌『ピオネール』創刊号に掲載され、その年の4月に絵本化されたものという。刊行部数は七千部。水野さんはその題名を「怠け者でものぐさなヴラスの話」と記している。
マヤコフスキーはしばしば子供のために詩を書いたが、それが単独で絵本化されるのは本書が初めてだった由。マヤコフスキーの生前に出た絵本は全部で十冊ほどあり、このあと同年6月に力のこもった傑作『海と灯台についての私の本』が、翌28年9月には子供たちに将来を真摯に問いかける『何になるか?』が続く。『怠け者ヴラスの物語』を含むこれら三冊は「幻のロシア絵本」展にも並んだので、興味がおありの方はぜひ同展カタログをご参照いただきたい。
周知のように、マヤコフスキーは1930年4月、謎の自殺を遂げるが、絵本『何になるか?』がその死後も版を重ね、愛読されたのとは対照的に、この『怠け者ヴラスの物語』は初版七千部が出たきり、なぜか重版されなかった。ソ連国内にあまねく流通した当時のロシア絵本として七千はかなり小さな部数であり、もともと稀覯本になるべく運命づけられていた。
さて絵本の中身はといえば、ぐうたらな怠け者の少年ヴラスの行状を面白おかしく物語ったものらしいが、手元に邦訳がないため、その詳細をここでお伝えできないのが残念である。さぞかし抱腹絶倒の内容だろうに。
マヤコフスキーの詩行の配置はあちこちで自由に改行され、視覚詩としても愉しめるよう配置されていて、さすが往時の未来派詩人の面目躍如といったところ。ウシャコーワの挿絵はいかにもヘタウマ風で野放図だが、この絵本の気分にはよく合致している。
この絵本については露語版ウィキペディアに詳しい解説があり、それを拾い読みすると、挿絵画家ウシャコーワは主人公ヴラス少年の両親のモデルとして、親しかった作家ミハイル・ブルガーコフ夫妻を選び、彼らの似顔絵(!)を描いたのだという。いやはや、これでは増刷されなかったのも無理はない。
オークション出品者から届いた絵本の現物を点検すると、表紙に少し損傷があり、綴じが外れかかっていたとはいえ、ページの欠落や落書きなどはない完本だった。
前述のように奥付に年記は記されていないが、モスクワ「若き親衛隊 Молодая гвардия」刊、七千部刷られたうちの一冊とわかる。定価は六十コペイカだが、ゴム印で五十コペイカに訂正され、さらに三十コペイカに値引きされている。よほど売れなかったのだろうか。
それにしても、九十年も前の稀少な絵本がオークション出品者の住む那須塩原の地まで、いかなる経路を辿って流れ着いたのだろう。差し支えない範囲で入手先を問い合わせてみると、転居した某家から一切合財の整理を任され、そのときに見つけたものだといい、この手の絵本はこれ一冊きりだったそうだ。
上述したように、わが国にロシア絵本が正式ルートで輸入されたのは1932年以降なので、1920年代の絵本は滅多に見る機会がない。ソ連滞在者や旅行者が土産として買い求めるなど、特殊な状況下で持ち込まれたものと推察できそうである。もしかすると、近年になって絵本コレクターが入手した可能性も否定できないが、それにしては栃木の山奥に一冊だけポツンと出現したのがどうにも解せない。
今ふと思い立ち、あちこちネットで検索して、三年前の10月(ということは小生がこれを落札したのとほぼ同時期)に同じ絵本がモスクワでオークションにかけられた記録を見つけた。それによると、落札価格は1,050,000ルーブリ。当時の換算レートでざっと二百十万円(!!!)。恐るべき高額である。わが購入額八百円がいかに法外な安さだったか、改めて思い知らされた。