1970年10月4日、ジャニス・ジョプリンは二十七歳の若さで急逝した。すでに二枚のLPが出ており、1967年夏モンタレーのポップ・フェスティヴァルに彗星のごとく現れて熱唱した噂も伝えられていたから、わが国でもリアルタイムの反響があり、一般紙にも訃報が出た。毎日新聞の記事は小さいが写真入りで
「ロック歌手ジョプリンさんが死ぬ」と題された。曰く
【ハリウッド(米カリフォルニア州)四日ロイター=共同】米女性ロック歌手の第一人者、ジャニス・ジョプリンさん(ニ七)=写真=が四日夜十時すぎ、ハリウッドにあるアパートの自室で死んでいるのを発見された。死因は睡眠薬の飲みすぎとみられている。 『ミュージックライフ』誌は早くからジャニスの動静を追っており、1970年3月号で彼女のカラー写真を表紙に用いたほどだったので、同年12月号に「特報 ジャニス・ジョプリンの急死」なる記事を載せている。対するに『ニューミュージック・マガジン』の反応はさらに迅速で、同年11月号に早くも中村とうようが「追悼 ジャニス・ジョプリン」なる文章を寄せた。訃報に接してすぐさま書かれたおぼしい
。
一般の音楽ファンの反応はどうだったのだろうか。昨日のラジオ番組でピーター・バラカン氏は遺作アルバム『パール』の曲や、その少し前のカナダでのライヴ音源をかけたあと、「当時ロンドンにいて、まだ十九歳だった自分は、個人的にはあんまりいいと思っていなかった。アルバム『パール』が出て、うわあ、この人、物凄く成長したな、もったいないな、とつくづく思ったものでした」と述懐していた。1970年の時点でポップ・ミュージックと絶縁していた小生には同時代の記憶が皆無なので、そのあたりを当時ロック少年だった旧友たち(横谷君やBoeら)に尋ねたいと思いつつ、まだ果たせていない。
小生が遅ればせながらジャニスにたどり着いたのは、1975年秋になってからだ。ライヴスポット「荻窪ロフト」で、深夜のリクエスト・タイムにアルバム『パール』と『チープ・スリルズ』が流れた。むろん別々の機会にである。圧倒されながら壁に掲げられたLPジャケットをしげしげ見上げたものだ。八年もの間ロックを含めたポップス全般と疎遠だった小生には、ロフトでのひとときこそ「失われた時」を取り戻す、またとない貴重な時間だった。四十坪に満たない穴蔵めいた空間で息をひそめるようにして、ジャニスの歌声に打ちのめされ、二ール・ヤングを心して聴き、トム・ウェイツとフィービ・スノウを初めて知ったあの至福の体験。何十年たってもその記憶は薄れない。真夜中にここで食べた焼き饂飩の思いがけぬ美味しさとともに。