1990年代のCD全盛期、私たちが耳にしうる音楽のレパートリーは飛躍的に拡大した。知られざる作曲家の未聴の楽曲がここぞとばかり、どっと音盤化されたのである。わがフローラン・シュミットも例外でなかった。
今は亡きヴァロワ・レーベルから出た作曲家別シリーズ「発見 Découverte」――ラロ、アルカン、アーン、ロパルツ、ダンディ、トゥールヌミールら、「不当に忘れられた近代フランス作曲家」に光を当てた意欲的なアルバムの一枚。フローラン・シュミットではもう一枚、管弦楽曲集も出ていた。
醸し出す趣がそれぞれ異なるフローラン・シュミットの室内楽を三つ集めた重宝なアルバムだ。編成も作風も作曲年代もまちまちだが、それだけに彼の多面的な、複雑で捉えがたい個性をよく示している。聴けば聴くほど、正体が見えなくなってくる。ことほど左様に厄介な作曲家なのだ。
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フローラン・シュミットのヴァイオリン・ソナタが「繋がれた二部からなる自由なソナタ、好ましき水の如く Sonate libre en deux parties enchaînées, ad modum clementis aquæ」なる長々しい正式名称で呼ばれる真意がよく判らない。ライナーノーツによると、当時クレマンソーが発行していた日刊紙『自由人(L'Homme libre)』が廃刊を余儀なくされ、『鎖に繋がれた人(L'Homme enchaîné)』と改名して再刊された事件が下敷きになっているというが、こうなると貧書生にはもうお手上げである。
緩・急の二楽章しかないが、演奏時間は三十分に及ぶ。ソナタと呼ぶにはややアンバランスだが、書法はきわめて緊密で、片時も緊張感が途切れない。1918~19年(ドビュッシー歿後すぐ)という年代からすると大胆な作品であるのは間違いなく、聴けば聴くほどに玄妙な味わいが増す。
1920年の初演を聴いたロラン=マニュエルは次のように評した。「音楽は流麗なしなやかさと変化に富み、片時も聴き手の関心を逸らさない。川の流れのような自由さで進行し、その美点は自由で堅固な構成の魅力のみならず、旋律と和声と器楽スタイルの斬新で稔り豊かな探求にある」(大意)。
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二曲目の《三つの狂詩曲》はよほど理解しやすい。一聴して明らかなように、これらは既存の音楽、すなわちシャブリエ(フランス風)、ショパン(ポーランド風)、ヨハン・シュトラウス(ウィーン風)の楽曲の巧妙なパスティーシュである。1903年というから、ローマ大賞を得たシュミットが留学していた期間の産物である(もっとも彼は各地に旅ばかりしていたというが)。
どれも開放感に溢れた愉しい音楽だが、とりわけ「維納風」が秀逸。巧みに模倣されたウィンナ・ワルツが自在に展開し、華々しく炸裂する。これが後輩ラヴェルの《ラ・ヴァルス》の手本となったのは誰の耳にも明らかだ。
先日たまたまラジオでこの曲がかかり、博覧強記で知られる解説子がその先駆性を力説していたのも宜なるかな(もっとも放送自体はシュミットを「豪壮と絢爛の作曲家」と一義的に決めつけた感心しない内容だったが)。
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最も厄介な難物は三曲目の《偶然》だ。互いに関連のなさそうな四つの小品がただ連なり(だから「偶然」なのか?)、曰くありげだが、わけの判らぬタイトルが並ぶ。「足の速いゼリー」って誰? 「八分休符(Demi-soupir)」は「軽い溜息」との地口なのか? 「ブーレ=ブーラスク」はシャブリエの《気紛れなブーレ(ブーレ・ファンタスク)》への目配せか? などなど。どうやらライナーノーツもお手上げらしく、続出する疑問は解消しない。
閑話休題(それはともかく)、これを「性格的な小品集」として聴くならば、理屈抜きで愉しめる音楽である。再びライナーノーツから評伝作者イーヴ・ユシェールの言葉を引くと、「全曲はたいそう若々しく柔軟で、そこに魅力の源泉がある。始まりは皮肉っぽく冗談めかすが、途中は夢見心地、終盤は大胆で陶酔的だ。この作品に瑕疵や退屈な瞬間を探しても徒労である。歓びをもたらすべく、ひたすら音楽的であろうとのみ主張する作品なのだ」(大意)。