ギュスターヴ・フローベールの同名の歴史小説に基づく無声映画《サラムボオ Salammbô》(1925)は、フランスの製作者ルイ・オーベール(同名の作曲家とは別人)の采配のもと、当時すでに十数本の演出作品があったピエール・マロドン Pierre Marodon(1873~1949)が監督した、上演時間二時間余(126分)の超大作である。
同じく古代世界を題材にした歴史巨編のイタリア映画《カビリア》(1914)やアメリカ映画《イントレランス》(1916)を強く意識しながら、本作はフランス=オーストリアの資本提携で製作された。
《舞台は第一次ポエニ戦争後の古代カルタゴ。カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの娘サランボーは、女神タニットを祀る神殿の巫女を務めている。折りから起こった傭兵の叛乱で、神殿の宝物である聖布が奪われると、これを取り返すべく密命を受けたサランボーは、叛乱軍の指導者マトーの野営地に単身で忍び込む。サランボーは首尾よく聖布を取り戻すが、彼女に恋い焦がれたマトーと一夜を共にしたことから、彼女自身もマトーを愛するようになる。やがて叛乱が鎮圧され、捕えられたマトーが生贄として神前に捧げられると、これを目にしたサランボーもまた煩悶のうちに絶命した。》
いかにもスペクタクル巨編に相応しい題材であり、事実サランボーの物語は何度かオペラ化され(エルネスト・レイエル、ムソルグスキーほか)、1960年にはイタリアで再映画化されている。映画好きならば、オーソン・ウェルズの監督デビュー作《市民ケーン》のなかで、オペラ歌手を夢見る妻のためにケーンが新たに歌劇場をオープンする場面で、架空のオペラ《サランボー》の一場面が上演されたのをご記憶だろう(バーナード・ハーマンが作曲)。
❖
話を1925年のフランス映画に戻すと、この歴史巨編は世界的に喧伝されたらしく、日本でも下山商会が輸入し、《サラムボオ》の邦題で神田日活館、葵館、帝国館で公開した由。なので、本稿でもその顰みに倣って古めかしいカタカナ表記を採用した次第だ。
映画《サラムボオ》の付随音楽がフローラン・シュミットに依頼されたのは1925年6月末だった。パリのオペラ座での生演奏付き初上映は四か月後の10月に迫っていた。
作曲家はそのひと夏を費やして作曲に没頭したが、二時間もの映像に大編成のオーケストラの音楽を添わせるのは至難の業。やむなく彼は、旧作《サロメの悲劇》(1907)と《アントニーとクレオパトラ》(1920)から舞踊場面と戦闘場面の音楽を部分的に流用せざるを得なかったという。
二時間余の映画は以下の十章に分たれている。
I. 饗宴 Le festin
II. バレアレスの投石部隊 Les frondeurs baléares
III. タニットの聖布 Le voile de Tanit
IV. ハミルカル・バルカ Hamilcar Barca
V. マカルの戦い La bataille du Macar
VI. サラムボオの蛇 Le serpent de Salammbô
VII. 断ち切られた絆 La chaînette brisée
VIII. ハシュの進軍 Le défilé de la Hache
IX. ラデスの戦い La bataille de Rhadès
X. マトオの死 La mort de Mâtho
フローラン・シュミットはすべてのセクションに音楽を付けたのだが、オーケストラの生演奏を伴う上映はごく限られていた。1925年10月15日と22日、パリのオペラ座で催された二度のガラ公演がそのわずかな機会だった。
《サラムボオ》がパリ市内の映画館で封切られたのは10月20日だが、一般公開でフローラン・シュミットの音楽が用いられることは絶えてなかった。大編成のオーケストラを備えた映画館など、どこにも存在しなかったからだ。
❖
オリジナルどおり大オーケストラの生演奏を伴う上映が叶う次の機会は、はるか数十年も経ってからのことだ。
1991年の夏から秋にかけて、アヴィニョン、モンペリエ、ラ・ロック・ダンテロン、そしてパリで「フローラン・シュミットの夏」の名のもとに催された特別上映会がそれである。10月7日、六十六年ぶりにパリのオペラ座に帰還した《サラムボオ》は、当初の形そのままに復活をみたのである。
一連の上映会での生演奏は指揮者ジャック・メルシエ(Jacques Mercier)と彼の手兵に委ねられた。千載一遇の機会を捉えてレコード録音もなされた。
"Florent Schmitt: Salammbô"
フローラン・シュミット:
映画音楽《サラムボオ》作品76
第一組曲 (1927)
■ 静まった宮殿――蛮人の饗宴
■ 後宮にて――聖布を携えたマトオの逃亡
第二組曲 (1928)
■ 天幕にて
■ 古老の語り――死屍累々たるマカルの平原――バレアレスの投石部隊
第三組曲 (1931)
■ 戦闘協定――長老会議にて――ハシュの進軍――ハミルカルの隊列
■ マトオの処刑
ジャック・メルシエ指揮
イル=ド=フランス国立管弦楽団
フランス国軍合唱隊
1991年9月、クールブヴォワ、エスパース・カルポー
Adès 203592 (1993)
RCA 74321 733 952 (2000)
⇒ https://www.youtube.com/watch?v=3DdSIWnj5MQ
上述の復活上映では現存するフローラン・シュミットの手稿譜から全曲を指揮したというメルシエ(映画の各場面と同調させるのに苦心したそうな)だが、CD録音に際しては作曲者がのちに編んだ三つの組曲版を採用した。
それぞれの組曲における選曲と配列は必ずしも映画のシークエンス順ではなく、劇的な緩急の布置を心がけたものだから、耳からはサラムボオの物語が彷彿としない憾みがある。
とはいえ、フローラン・シュミットが練達の手腕で、濃厚きわまりない管弦楽曲を提供した事実は争えない。これほどまで巧緻に彫琢された映画音楽がまたとあろうか。オネゲル作曲の《鉄路の白薔薇》やショスタコーヴィチ作曲の《新バビロン》とともに、無声映画音楽史に特筆さるべき成果だろう。いつか音楽を伴うスクリーン上映を観てみたい。