拙ブログの読者はとうにご承知だろうが、小生は19世紀ドイツ・オーストリアの後期ロマン派音楽を好まない。ワーグナーもブルックナーも滅多に聴かないし、マーラーの交響曲もおおむね苦手とする。とにかく長すぎて辟易するし、際限なく膨張したあげく形を見失った音楽には一向に興味が湧かないのだ。
もう二十年ほど前になろうが、美術館の仕事でアムステルダムへ赴いたときのこと。といっても、この街に特段の用事があるわけでなく、新聞社の文化事業部の偉いさんと合流し、そこからサンクト・ペテルブルグへ向かうための経由地として二泊だけした。
まるで聞き憶えのない曲だ。マーラーであることは一聴して明らかなのだが、はてさてこれは何番の交響曲なのか。とんと見当がつきかねる。
いくら疎いからといって、《第一》《第五》《第九》だったらすぐにわかる。楽章が進んでも声楽が加わる気配がないので、《第二》《第三》《第四》《第八》ではありえない。ということは《第六》か《第七》なのだろうか。大編成なのに、室内楽的な精妙さに彩られ、ところどころ無調と見紛うような不協和音が鳴り響く。いったい、これは何番なのだろう。
あれよあれよと言う間に一時間数十分が過ぎて全曲終了。盛大な拍手に自分も加わりながら、情けないことに最後の最後まで、それが何なのか分からず仕舞いだった。演奏が終わっても、自分が何を聴いたのか判然としないなんて、後にも先にもそんな愚かしい体験はこれだけだ。
当夜の演奏会はこの一曲だけ。帰り際に慌ててプログラムを入手したら、なんと未完に終わった遺作《第十》交響曲。デリク・クック補筆完成版とある。そうだったのか! 道理でシェーンベルクみたいに響く箇所が散見するはずだ。
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そういうわけで、事ほど左様にマーラーの交響楽にはまるきり不案内のまま今日に至る。たまたまふと、こんな過去の失敗談を思いだしたものだから、今朝はこのディスクを聴いて、自分の蒙を啓こうと考えた次第だ。
"Mahler: Symphonic Movements"
マーラー:
交響詩《葬礼》
《花の章》~交響詩《巨人》
アダージョ ~交響曲 第十番 (クシェネク補筆版)
カール・アントン・リッケンバッハー指揮
バンベルク交響楽団
1988年1月、5月、バンベルク、クルトゥーアラウム
Virgin Classics VC 7 90771-2 (1989)
葬礼 ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=pEp9PmhXFUg
花の章 ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=sjvv57voSBY
アダージョ ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=xN5r2Gyijeo
マーラーの交響曲から除外されがちな断章ばかり集めた劃期的なアルバムである。彼の交響作品に生成過程を知るうえで欠かせない資料となる。これ以前にも(たぶん)以後にも、この種のディスクは存在しないのではないか?
《葬礼 Totenfeier》は「交響詩」と銘打たれるが、結局このあと改変を経たのち他の楽章を書き足して第二交響曲の第一楽章となる。現行版とあちこち異同があるらしいが、そのあたりは不案内で詳らかにしない。
のちに標題を削除して第一交響曲となった交響詩《巨人》の続篇として、主人公の若者が死んで、その葬送音楽として構想されたというのだから、マーラーの交響楽がいかに反古典的で、ロマンティックな標題音楽と踵を接していたのかが知れよう。
その《巨人》から標題が剥奪されて四楽章の交響曲となる過程で削除されてしまったのが元の第三楽章、すなわち《花の章 Blumine》である。
これを組み込んだ五楽章版の《巨人》交響曲もユージン・オーマンディ以来、何度も録音されたから、マーラー音痴の小生にとっても全く未知の断章というわけではない。2010年の暮れ、たまたま訪れたロンドンで実演に察したこともある(ウラジーミル・ユロフスキー指揮ロンドン・フィル)。ほんの六、七分しかない、短く可憐な小品である。
マーラーが歿したとき、第十交響曲はオーケストレーションをほぼ終えた第一楽章「アダージョ」、途中まで進んだ第三楽章「煉獄」を除いては不整合な草稿状態だった。未亡人アルマから後事を託されたエルンスト・クシェネクは全楽章の仕上げを端から諦め、第一楽章と第三楽章を完成させるに留めた。
本アルバムに収められたのは、大部分をマーラーが書き終えていた《アダージョ》のみである。ただし、指揮者リッケンバッハー自身によるライナーノーツによると、クシェネク版の補筆箇所にはアルバン・ベルクがいろいろ注文をつけており、当録音ではそのベルクの意見も反映させてスコア細部に手を加えてある由。
ここで聴く《アダージョ》と、かつて小生が実演を聴いたクック補筆版の第一楽章と、どこがどう違うのか、小生には皆目わからないが、かつて感じた「大編成なのに、室内楽的な精妙さに彩られ、ところどころ無調と見紛うような不協和音が鳴り響く」という印象は全く変わらない。冷徹な陶酔とでもいうべき、比類のない音楽だ。なるほどマーラーは恐るべき境地に到達している。ここから次世代の無調音楽まではあと一歩だろう。
リッケンバッハーとバンベルク響の演奏は誠実で肌理細やか、音色こそ地味だが、まずは申し分のない緻密な仕上がりであり、マーラーの交響作品への恰好の道案内となろう。これを機に、あれこれ交響曲を聴いてみようかという好奇心も沸いてくる。あくまで一時的な気紛れかもしれないが。