シャーリー・ナイト(Shirley Knight)というハリウッド女優がいる。ほとんど話題になることなく、わずかな主演作のほかは、地味な脇役に徹した女性だから、存在を知る人はほとんどいないだろう。
小生もまるで知らない人だったが、映画狂の知友がかつて不意に彼女の名を口にした。「シャーリー・ナイトという女優さんがとてもいいのだ」と。邦画を熱愛するその友人が、若尾文子でも藤純子でも梶芽衣子でもなく、知られざるアメリカ女優を名指ししたのが新鮮な驚きだったので、もう四十五年も経った今なお記憶しているのである。
彼が推奨した映画は《雨のなかの女》(1969)という、これまた誰も話題にしない作品だった。周囲でもこの映画を観た者はほとんどいなかった。現今のようにソフトが氾濫し、YouTubeや配信で未知の映画が簡単に観られる時代ではなかったのである。
それから二、三年あとだろうか、名画座の「早稲田松竹」で、その《雨のなかの女》が二本立ての片割れでひっそり上映された。ヴィスコンティの《ベニスに死す》との併映という奇妙な番組編成だったが、とにかくスクリーンで対峙する機会を得た。1970年代後半のことだ。
この映画におけるシャーリー・ナイトについては、『女優グラフィティ』(ブロンズ社、1978)という本のなかで、川本三郎さんが見事に紹介している。川本さんはシドニー・ルメット監督作品《グループ》(1966)でキャンディス・バーゲンやジョアンナ・プティットらとともに登場する八人の女子大卒業生のなかに彼女がいて、地味だが誠実で「日本でいえば津田塾か、お茶大のおとなしい優等生といった感じ」と形容したあと、次のように記す。
「グループ」に続いてよかったのは「雨のなかの女」(69)の家出してしまう人妻ナタリー。のちに「ゴッドファーザー」を作ることになるフランシス・フォード・コッポラの地味な小品だが、この映画の心優しい彼女は忘れられない。
結婚してわずか一年めのナタリーは結婚生活に自信をなくしてある雨の日、家を出てひとり旅に出る。途中でヒッチハイクの若者ギルギャノン(ジェームズ・カーン)を車にのせる。立派な体格のスポーツマン。だが彼はフットボールの怪我で "廃人" になった青年だった。学校を追い出され、恋人に捨てられた――。彼女はなんとか彼と別れたいと思うが、そのたびに彼女にすがってくる大きな "こども" を捨てきれない。いなむしろ彼に惹かれさえしていく。そして彼女が警官(ロバート・デュバル)に犯されそうになった時、彼は命がけで彼女を助けるのだ。そのために撃たれて死んでしまった彼の死体を抱きしめながら最後ナタリーは泣いていう。「もう何もこわがることはないわ。私があなたを守ってあげるから」。その夜も雨が降っている。原題は "レイン・ピープル"。雨族とでもいうのだろうか。はじめて会った夜、ギルギャノンがナタリーにいう。「雨族という人間がいるんだ。この人たちはみんな雨で出来ていて泣くと水になって消えてしまう。あなたはその雨族に似ている」ふと、大昔に名画座で一度観たきりの《雨のなかの女》をしみじみ思い出したのは、つい先日、そのシャーリー・ナイトの訃報に接したからだ。
『ニューヨーク・タイムズ』の追悼記事 ⇒ https://www.nytimes.com/2020/04/22/theater/shirley-knight-dead.html1936年生まれの享年八十三。記事は《雨のなかの女》に簡単に触れたあと、映画や舞台での活躍にも言及するが、贔屓目にみても目覚ましいキャリアとはいえず、至って地味な役者人生だったようだ。それがいかにもこの女優らしくもある。極東の島国にも彼女が忘れられず、その死を悼む者がいる、そう伝えたいために一文を草した。