日比谷公会堂でシャルル・デュトワ指揮、読売日本交響楽団の「スイスの夕」を聴いたわずか四日後、今度は新宿の東京厚生年金会館大ホールに赴いて、ジョルジュ・プレートル指揮でパリ管弦楽団を聴いた。1970年4月25日のことだ。田舎者の高校生の小生が外来オーケストラを生で聴いたのは、これが最初の機会だった。
こんな贅沢が許されたのは、ひとえに同年の大阪万博のお蔭である。欧米各国がそれぞれ代表的な演奏家やオーケストラを競うように派遣し、大阪と東京でかつて経験したことのない来日ラッシュが起こったのである。
フランスが誇りをもって送り出したのはパリ管弦楽団である。三年前の1967年、文化相アンドレ・マルローの肝煎りで結成されたこの新生団体は、創設指揮者シャルル・ミュンシュのもと、ベルリン・フィルと並ぶ世界最高峰のオーケストラを目指して邁進 ... のはずが、翌年ミュンシュ急逝という不幸に見舞われ、舵取り役を喪って失速した。急場しのぎにヘルベルト・フォン・カラヤンの助力を仰いだものの、多忙な彼はパリ管弦楽団を頻繁に指揮することができず、楽団員の間では不満が燻っていた。
1970年の初来日でも楽団側はカラヤン御大との共演を切望したが叶わず、やむなく自国の中堅どころ、セルジュ・ボドとジョルジュ・プレートルを伴ってのお披露目と相成った。そのあたりの事情は、当時の音楽雑誌でも報じられたから、かかる裏事情は小生にもなんとなく了解されていたように思う。
なけなしの小遣いをはたいて出向いたのは次の演奏会だった。四日あった東京公演からこの日を選んだのは、なんといっても曲目編成の良さゆえであるが、「プーランクに信頼され、マリア・カラスに愛された」伝説的なオーラに包まれた指揮者プレートルを実見したいという願望もまた大きかった。
1970年4月25日 (土)
午後七時~
新宿、東京厚生年金会館 大ホール
パリ管弦楽団 演奏会
指揮/ジョルジュ・プレートル
ピアノ/アレクシス・ワイセンベルク
◇
ラヴェル:
組曲《マ・メール・ロワ》
ピアノ協奏曲 ト長調
ムソルグスキー(ラヴェル編):
組曲《展覧会の絵》
きっかり半世紀前の演奏会を仔細に思い出せると言えば嘘になるが、それでも最初の《マ・メール・ロワ》冒頭の主題が静かに奏されたときの感動、その息を呑むほど柔和で精妙な響きを今も憶えている。
試みに当夜の日記を繙くと、二階席から「谷底を覗くようにして」ステージを見下ろした小生はこう記している。
7時5分頃、プレートルが現れる。僕の席からは顔がはっきり見えない。『マ・メール・ロア』。美しい音だ。フォーレを思わせる、ラヴェルの端正な音楽。全体が穏やかな雰囲気に包まれ、最後わずかに高まりをみせる。「一寸法師」の小鳥のさえずり、「野獣」を表すファゴットの鳴き声など、巧いなあとつくづく感心した。
次はワイセンベルクを独奏者とするラヴェルの両手の協奏曲。鞭の音で開始されるこの曲にはジャズからの借用が多く、陽気にふざけるラヴェルの一面が最もよく発揮されていて、プレートルには打ってつけの曲だと思う。パリ管弦楽団の音はさすがに美しく、ワイセンベルクの技巧も素晴らしいのだが、僕はなぜかあまり楽しめない。
熱狂的な拍手に促されて、協奏曲の第三楽章がまるごとアンコールされたのは、今も小生の記憶に鮮やかだが、そのあとワイセンベルクはなお、バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」、ブラームスの「ラプソディ」を弾いた、とある。椀飯振舞である。
最後は『展覧会の絵』。パリ管弦楽団の名人芸を聴くのに打ってつけの曲だ。どのパートも恐ろしく巧い。独奏も、アンサンブルも、なんと素晴らしい響きをつくりだしていることか。プレートルの指揮は見るからに華麗だ。曲が終わると嵐のような拍手。アンコールではまず「キエフの大きな門」の後半、そしてトロンボーンが活躍する「ブイドロ」、さらにベルリオーズの「ハンガリー行進曲」が生き生きと奏されて演奏会は閉じられた。
なるほどねえ、そういう事の次第であったか。五十年前の自分自身にいろいろ教えられるのは不思議な気持ちである。
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演奏会が終了し、席を立った小生はすぐには帰宅しなかった。日記にはこうある。
僕は案内嬢に教えられて、一度[東京厚生年金会館の建物の]外に出て、楽屋への通用門の前でプレートルを待った。
四日前の日比谷公会堂での成功体験(デュトワ、アルヘリッチ、ニコレ、デッラ・カーザのサインを貰った)に味をしめた小生は、またしても演奏者の直筆サインを頂戴しようと画策したのである。それにしても会場の係員は田舎の高校生になんと親切だったことか!
ほどなく通用門の前には行列ができた。当時そう呼んでいたか詳らかでないが、いわゆる「出待ち」である。しばらくすると、
そこで待つ人を十人ずつぐらい中へ入れてくれた。
とある。
楽屋でくつろぐジョルジュ・プレートルは、見るからに逞しい体つきで、芸術家というよりもスポーツマンのような雰囲気を発散させていた(彼は黒帯の有段者だという噂だった)。首に巻いたタオルがいっそうその印象を強めていた。一夜の指揮を終えた直後だったから、上気して赤らんだ上半身からはまだ湯気が立っているように見えた。
自分の順番になると、あらかじめ用意しておいたLPレコードを恐る恐る差し出した。プーランクの《牝鹿》組曲を含む「フランス現代バレエ音楽集」(パリ音楽院管弦楽団)である。
ジャケットを一瞥すると、プレートルの目にちらり「なんだ、またこのアルバムかよ。俺はプーランクばかりのスペシャリストぢゃないんだぜ」という不興の色が煌いたような気がした。
無論それはほんの一瞬のことで、彼はすぐ精悍な笑顔に戻ると、ジャケットのマリー・ローランサンの装画の余白に、すらすらと署名してくれた。「Tokio, 1970」という注記入りで。
⇒https://twitter.com/ShinichiNumabe/status/1253956274435223554