読売日響名曲シリーズ 第53回 「スイスの夕」
1970年4月21日(火) 7:00~
日比谷公会堂
◇
指揮=シャルル・デュトア
フルート=オーレル・ニコレ
ソプラノ=リーザ・デラ・カーザ
◇
オネゲル: 交響曲第三番《礼拝》
マルタン: フルート、弦楽合奏とピアノのためのバラード
R・シュトラウス:《四つの最後の歌》
R・シュトラウス: 交響詩《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》
◇
A=1,800- B=1,500- C=1,200- D=900-
日比谷公会堂に来るのはこのときが初めてだった。音楽会に足を運ぶようになってまだ日の浅かった小生は上野の東京文化会館と新宿の東京厚生年金会館と内幸町の旧=NHKホールしか知らなかった。当時の帝都にはオーケストラが演奏会を催せる広さを備えた音楽ホールが以上の四つしかなかったのだ。
戦前の建物である日比谷公会堂の厳めしく古色蒼然たる佇まいは田舎の高校生をたじろがせるに充分だった。些か過剰なまでに緊張して席に着く。
このコンサートのことは読売日本交響楽団からの案内で知ったと思う。1月26日のアルヘリッチの協奏曲(プロコフィエフの三番、若杉弘指揮)聴きたさに定期公演三回分の通し切符を購入したので、定期と別枠の「名曲シリーズ」の案内チラシが自宅に郵送されてきたのである。ちなみに、この日は平日だから小生は埼玉の片田舎から黒い革鞄を携え、学生服姿で出かけたのだろう。ああ隠れる穴があったら入りたい。
❖
「名曲シリーズ」と銘打たれていても、この演奏会はいつもの読売日響公演とは性格を異にしていた。
なにしろ1970年は途轍もない年だった。大阪万博に合わせて欧米各国のオーケストラが大挙して来日し、国家の威信を賭けて至芸を競い合う。春から秋にかけて、東京でも以下のような面々が犇き合ったのである。
米=クリーヴランド管弦楽団(セル、ブーレーズ)、ニューヨーク・フィル(バーンスタイン、小沢)
ソ=レニングラード・フィル(ムラヴィンスキー、アルヴィド・ヤンソンス)
独=ベルリン・フィル(カラヤン)
仏=パリ管弦楽団(プレートル、ボード)、パイヤール室内管弦楽団(パイヤール)
英=ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(バルビローリ)、イギリス室内管弦楽団(レッパード)
伊=ヴィルトゥオージ・ディ・ローマ合奏団(ファザーノ)
波=ワルシャワ・フィル(ロヴィツキ)
加=モントリオール交響楽団(デッカー)
「音楽の万博」さながらの賑わいだ。ムラヴィンスキーはキャンセル、バルビローリは来日目前で急逝したが、それでも目も眩むようなラインナップであることは変わらない。これにベルリン・ドイツ・オペラ(マゼール、マデルナ指揮)、ローマ室内歌劇団(ファザーノ指揮)、ボリショイ歌劇場(シモノフ、ロジェストヴェンスキー、ロストロポーヴィチ指揮)やら、アレクシス・ワイセンベルクやスヴャトスラフ・リヒテルまでが加わった。この年、わが国の音楽界は前代未聞の目覚ましい活況ぶりを呈していたのである。
嗚呼、それなのに、弱小国スイスは悲しいかな、自前のオーケストラを派遣できなかった。
スイスの誇る国際的なオーケストラといえばジュネーヴを本拠とするスイス・ロマンド管弦楽団だろうが、半世紀にわたって君臨し、二年前の1968年には共に来日した創設指揮者エルネスト・アンセルメを翌69年に喪ってからは往時の輝きを急速に失いつつあった。他にもベルンやチューリヒやルガーノにもオーケストラはあるにはあるが、知名度も実力も集客力もスイス・ロマンドに遠く及ばなかった。
水面下でどのような折衝があったか知らないが、結局この大阪万博の年にスイスは自国の管弦楽団を送り出すこと能わず、指揮者と独奏者と独唱者を派遣して日本のオーケストラと共演させる窮余の一策でお茶を濁したとおぼしい。
当夜の読売日本交響楽団「名曲シリーズ」が「スイスの夕」と銘打たれていたのはそうした次第である。そうした弱小国の悲哀は田舎者の高校生にもなんとなく了解できた。「ああ、せめてアンセルメが生きていたらなあ」と心中密かに嘆息したものだ。「シャルル・デュトアなんて知らないや」と。
❖
それでもわざわざ前売券を買って「スイスの夕」に出かけたのは、ひとえにそのスイスの無名指揮者「デュトア」が「マルタ・アルゲリッヒの夫君」だと聞いたから。それ以外にさしたる理由はなかったと思う。
同年1月にアルヘリッチが初来日した際、シャルル・デュトワも少し後に合流し、京都でヴァカンスを過ごした写真記事が『音楽の友』誌に掲載され、「どんな指揮者なんだろう」と好奇心をそそられたのだ。「アルゲリッヒが夢中になるくらいだから、さぞかし凄い指揮者なのか」というわけだ。
幼稚な高校生はさらに想像逞しく、こんな子供じみたことまで夢想した。「その指揮者の演奏会を聴きに、ひょっとしてアルゲリッヒがお忍びで再来日するかもしれないぞ」、と。三か月前の来日時にリサイタル(1月15日)とコンチェルト(1月26日)をつぶさに見聞した高校生は、芳紀ニ十八歳のアルヘンティーナの天才と美貌にぞっこん惚れ込んでしまったのである。
われながら感心してしまうのは、この「スイスの夕」のため周到に準備して臨んでいること。事前にわざわざ上野の東京文化会館の音楽資料室で該当するレコードを耳にして当日のプログラム曲目をあらかた予習しているのだ。
オネゲルとマルタンはスイスが世界に誇る二大作曲家。シュトラウスの歌曲集《四つの最後の歌》も最晩年の作曲家がスイス隠棲期に遺した作だから、まあこれも「スイス音楽」といえなくもない。それなりに同国のプライドのありかを如実に示した曲目編成なのである。
最後の《ティル》以外は未知の曲ばかりだった。なので十日ほど前の土曜日に上野まで出向いて(きっとまた学生服姿でだ!)、オネゲルの第三交響曲(セルジュ・ボード指揮)とシュトラウスの《四つの最後の歌》(シュヴァルツコップ独唱、セル指揮)のLPをヘッドホンで熱心に試聴した。
十七歳の少年がいかに真剣だったかは、今も手許に残る当日の音楽ノートからも窺える。なにしろ、ライナーノーツのあらましと、《四つの最後の歌》の独・日対訳をまるごと丁寧に書き写しているのである。たしか当時の音楽資料室にはコピー設備なぞなかったと記憶する(あったとしても青紫色に感光する湿式複写機の時代である)。
1970年4月21日、日比谷公会堂。「読売日響名曲シリーズ/スイスの夕」はどのような演奏会だったか。
恥を忍んで当夜の日記を書き写そう。拙劣な文章だがご寛恕を希う。