岩波書店から高杉一郎の邦訳『トムは真夜中の庭で』が出てすぐ神保町の信山社で買い求め、一気に読み進めた晩を今でも忘れない。1967年の暮れか、翌68年初めか、いずれにせよ中学三年の終わり頃だ。
そのあと1970年代の初め、翻訳で『ミノー号の冒険』(前田三恵子訳)と『まぼろしの小さい犬』(猪熊葉子訳)を続けざまに読んだ。前者は ピアスのデビュー作 "Minnow on the Say"(ハヤ号セイ川をいく/1955)の抄訳、後者は第三作 "A Dog So Small"(1962)の全訳である。
それぞれ肌理細やかで味わい深い作品だが、どちらも『トムは真夜中の庭で』の完成度には及ばない、というのが偽らざる感想である。
それから後の作品は丸善で原書を取り寄せて読んだ。そう書くとなんだか偉そうだが、当時まだ翻訳が出ていなかったから仕方なかったのである。
"From Inside Scotland Yard"(1963)*Harold Scot との共作
"What the Neighbours Did"(1972)
"The Shadow Cage"(1977)
"The Children of the House"(1977)*Brian Fairfax-Lucy との共作
"Elm Street Lot"(1979)
このあたりまでだろうか、どれもそこそこ面白かったし、文章も簡潔で美しいと思った。でも、飛び抜けた傑作というほどではなかった。期待が大きすぎたのだろうか。
爾来、フィリッパ・ピアスを読んでいない。その後ほとんどの作品が邦訳されたという話だが、失望するのが怖くて、なんとなく敬遠してしまったのだ。
今、書庫から "Tom's Midnight Garden" を引っ張り出して眺めている。Oxford から出た英国版、1975年の第七刷だ。どうやら古本で見つけたものらしく、見返しには三軒茶屋の「進省堂」という古書店のシールが貼ってある。
スーザン・アインツィヒ(Susan Einzig)のカヴァー絵と挿絵が無性に懐かしい。繊細で細密で、しかも喚起力がある。
不意にこの本に思いを馳せたのには理由がある。巷ではボッカッチョの『デカメロン』からデフォーの『疫病流行記』、ポーの『赤死病の仮面』を経て、チャペックの『白い病気』やカミュの『ペスト』へと至る一連の書物が取り沙汰されているが、『トムは真夜中の庭で』も、その長い系譜に連なる作品と言えなくもないからだ。
その第一章は "Exile" と題され、大都会で麻疹(はしか)が流行し、伝染を恐れた両親がトムを田舎の親戚の家に単身で疎開させる場面から始まる。これもまた、疫病の蔓延を背景とする「感染症文学」なのだ。
よくよく考えてみたら、フィリッパ・ピアスの代表作をこれまで一度も原書で読んだことがなかった。高杉一郎の達意の名訳があれば充分だったからだ。
そうだ、と一人合点する。今からこれを通読してみよう。児童書なので活字も大きめだし、ページ数も二百強とほどよい長さである。英語を忘れないためにも、老人の呆け防止の一助にも、恰好な読書体験となるはずだ。