今日(2月10日)もよく晴れて陽光は春さながら。ただし日蔭の空気はひやり肌に冷たい。これから旧友たちとの遅い新年会が新宿であるのだが、厚手のコートを着ていこう。そんなわけで午前中の仕事はやめにして、鍾愛のリヒャルト・シュトラウス《四つの最後の歌》の近作CDを少しだけ聴き較べした。
Lise Davidsen
Esa-Pekka Salonen: Philharmonia Orchestra
1/2/3/428, 29 September & 6, 7 October 2018, Henry Wood Hall, London
Decca 483 4883 (2019)
Sumi Hwang (황수미)
Helmut Deutsch (pf)
1/2/3/4
20-23 November 2018, Schubertiade, Hohenems
Deutsche Grammophon KoreaDG40245 (2019)
Diana Damrau
Mariss Jansons: Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
1/2/3/421-25 January 2019, Herkulessaal, Residenz, München
Erato 0190295303464 (2020)
Elsa Dreisig
Jonathan Ware (pf)
1, 2, 3, 4 (sepatately)
2, 3, 8, 9, 11 July 2019, Église luthérienne Saint-Pierre, Paris
Erato 0190295319489 (2020)
Marlis Petersen
Stephan Matthias Lademann (pf)
Gregor Hübner (vn)
3 only
15-20 July 2019, Konzerthaus, Blaibach
Solo Musica SM 316 (2019)
*1: Frühling / 2: September / 3: Beim Schlafengehen / 4: Im Abendrot
手元にある《四つの最後の歌》のCDも、いつの間にか百数十を数えるに至った。今やソプラノ歌手からば猫も杓子もこぞってこれを録音するのが習わしとなった。選ばれた大歌手しか歌わない格別に至難な歌曲集だった昔(1970年頃まで)とは状況がまるで異なるのだ。
ところが2010年代に入ると、この曲の新録音が途絶えがちになり、2012年や2015、16年にはただの一枚も出ていない。レコード業界の世界的な低迷はこんなところにも暗い影を落としているのである。
ところが2018年秋から19年夏にかけての一年弱の間に、上に並べたとおり、欧州各地で《四つの最後の歌》の新録音が相次いだ。まるで申し合わせたような塩梅にである。
列挙した五点のうち、韓国人スミ・ファンのアルバムはすでに紹介済なので、残りの四つのアルバムを聴き較べてみた。
❖
まずはノルウェーのリーセ・ダヴィッドセンから。北欧はキルステン・フラグスタート、ビルギット・二ルソンの昔からワーグナーやシュトラウスの楽劇のヒロインを易々と演じ歌うドラマティックなソプラノを輩出してきたが(フラグスタートは《四つの最後の歌》の創唱者である)、彼女もおそらくその系譜に連なる北欧の新星である。
なるほど、これは逸材だ。併録された《タンホイザー》《ナクソス島のアリアドネ》のアリアを聴くと、バイロイト音楽祭や各地の歌劇場で彼女が評判なのも頷けよう。どんな音域も難なくこなす声の安定感が目覚ましい。《四つの最後の歌》も「春」で出る高音の難所もたやすくクリアし、瑕瑾のない堂々たる歌いっぷりを披露する。これがデビュー・アルバムなのだから恐れ入る。
ただし、歴代のソプラノでこの歌曲集に馴れ親しんできた者としては、ここには強靭な声の威力だけでは如何ともしがたい難しさがあるのだと、不満のひとつも申し述べたい気になる。《四つの最後の歌》には高度な歌唱力とともに、それぞれの歌への深い洞察が不可欠なのだ。ダヴィッドセン嬢はその申し分ない技量で、これらの歌の表面を磨き上げている感が否めない。若やいだ瑞々しい声と老練な解釈の両立――老シュトラウスの遺作が歌手たちに課したハードルの恐るべき高さを今さらにように思い知る。
❖
次のディアナ・ダムラウ盤はつい先日やっと手元に届いた新譜。《四つの最後の歌》を冒頭に、シュトラウス全歌曲中の白眉《明日》をしんがりに配し、《オフィーリアの歌》や《葵》、さらには初期のあまり聞く機会のない秘曲まで取り上げた純然たるシュトラウス歌曲集の体裁である。冒頭と末尾の一曲だけがオーケストラ伴奏。それを亡くなったマリス・ヤンソンスが手兵バイエルン放送交響楽団を指揮しているのも本アルバムの聴きどころだろう。
結論から言うと、もはやヴェテランの域に達したダムラウが歌う《四つの最後の歌》は、あらゆる点でダヴィッドセン盤とは対照的な生き方だ。
大仰でドラマティックな絶唱は回避され、抑制と熟慮に貫かれた歌唱の果てに、瞑想的な沈思の世界が眼前に広がる。これこそ最晩年の作曲家が到達した境地なのだ、というのがダムラウの言い分だろう。ヤンソンスの指揮も充分それに応えている。最後の《明日》では不覚にも涙が滲んだ。
❖
エルサ・ドライジク(この表音に自信がない)は仏人の父とノルウェー人の母の間に生まれ、パリ音楽院で学んだあとベルリン国立歌劇場やエクス=アン=プロヴァンス音楽祭で活躍を始めた新鋭だという。これが彼女のセカンド・アルバムで "Morgen" と題される。
ただし、これはシュトラウス歌曲アルバムではなく、《四つの最後の歌》はデュパルクの代表的歌曲(旅への誘い、フィディレ、恍惚、前世など)やラフマニノフの歌曲集《六つのロマンス》とともに歌われる。それも、シュトラウスとラフマニノフの歌曲集は解体され、各曲ばらばらに歌われる。「旅への誘い」のあと「春」が歌われると、二つの花の歌(ラフマニノフの「雛菊」とシュトラウスの「葵」)が続き、「恍惚」のあと「眠りに就こうとして」が歌われ・・・といった具合に、緩やかな連関性で連なっていく。
つまり《四つの最後の歌》をひと繋がりでなく、他の作曲家の歌曲も交えて単体で聴かせようという、前代未聞の実験的な試みなのだ。これはドライジク嬢がピアノ伴奏のジョナサン・ウェアと相談しながら企んだ由。
その成否はともかくとして、仏独露の(同時代を共有したと言えなくもない)三人の作曲家のロマンティックのありように思いを馳せながら過ごす七十六分も悪くはない。ただし歌唱は好もしいとはいえ、まだ深みを欠く。
最後はドイツのヴェテラン歌手マルリス・ペーテルゼンの「内なる世界 Innenwelt」と題された歌曲アンソロジー。「次元 Dimensionen」なる選集の第三集という。独墺からシューベルト、ブラームス、ヴォルフ、レーガーら、仏からフォーレ、デュパルク、アーンを召喚し、心の内なる世界へと誘うというコンセプトだろうか。
その締めくくり(正確には最後から二曲目)に《四つの最後の歌》の第三曲「眠りに就こうとして」だけが配される。しかもピアノ伴奏にヴァイオリンのオブリガートを伴う独自の編曲版(グレゴール・ヒュービナー編)。これが音楽的に正当な行き方かは微妙だが、効果はなかなか絶大。歌唱も深いところまで届いている。