光吉夏弥(1904~1988)旧蔵の児童書が白百合女子大学にある、と友人から知らされて、真っ先に脳裏に閃いたのは「そこには戦前のロシア絵本が含まれているに違いない」という確信だった。五年前[2004~05年]に日本各地を巡回した展覧会「幻のロシア絵本 1920–30年代」で、革命後の息吹を伝えるロシア絵本が戦前の日本にもたらされた経緯を検証した際、若き日の光吉がそれらにいち早く注目し、的確な評価を与えていた事実に気づいたからである。
太平洋戦争が激しさを増す1943(昭和十八)年9月、『生活美術』誌が「絵本特輯」を組んだ際、光吉は論考「絵本の世界」を寄稿し、日本の絵本の「本当の進展はこれから」という立場から「鬼畜米英」が叫ばれる時勢に抗って、果敢にもアメリカなどの絵本の実例を紹介するとともに、それらの優秀性と先駆性を称賛した。
彼は1930年前後にソ連で出た「粗末な紙に刷られた簡単な絵本」にも着目し、「凡ゆる知識的なものについての絵本が、ふんだんに提供された」「絵本本来の魅力を本質的に持つたものであつた」と、見事にその意義を言い当てている。
白百合女子大学児童文化研究センターのご許可を得て、光吉文庫を調査する機会を得た。期待は裏切られなかった。そこには1920~30年代のロシア絵本が良好な状態で61冊も架蔵されていたのである。小生の知る限り、これは画家吉原治良
【よしはらじろう】旧蔵の87冊(芦屋市立美術博物館寄託[その後、大阪中之島美術館に移管された由])に次ぎ、デザイナー原弘
【はらひろむ】旧蔵の39冊(特種製紙株式会社蔵)を上回る、日本屈指のロシア絵本コレクションにほかならない。
先に引いた1943年の論考で挿図が例示された『電話』(チュコフスキー詩・ルダコフ絵、1926年/整理番号M13172)、『雲のなかで』(デイネカ絵、1930年/整理番号M13225)、『モスクワの乗合バス』(チョールヌイ詩・グレーヴィチ絵、1931年/整理番号M13232)などの現物が後世に伝えられたことに深い感銘を禁じ得ない。
光吉文庫のロシア絵本の刊行年は1931年と32年に集中しており(61冊のうち39冊)、光吉が30年代のある時期にこれらを精力的に集めたと推察されよう。これは吉原治良や原弘の場合も同様であり、実際に光吉の旧蔵絵本のかなりの部分が吉原や原の絵本と重複する。
『昨日と今日』(マルシャーク詩・レーベジェフ絵、1931年、第5版/整理番号 M13188)、『しっかり洗え』(チュコフスキー詩・アンネンコフ絵、1933年、第17版/整理番号 M13189)の二冊(いずれも増刷を重ねた人気絵本)については、吉原旧蔵の絵本と刊行年もエディションも一致する。
おそらく光吉は大半の絵本をソ連書籍輸入書店「ナウカ社」経由で入手したのであろう。1932(昭和七)年に創業した同店(東京・神保町)にはおびただしい数のロシア絵本が入荷しており、光吉もまたここで目にした絵本を舞い求めたと考えられる。事実、光吉文庫のロシア絵本を詳しく調べると、見返しに「ナウカ社」のシールが貼られたものが八冊あることがわかる。
熱心な収書家だった光吉はそれだけでは飽き足りず、八方手を尽くしてロシア絵本を集めたようだ。ナウカ社経由では入手が難しい1920年代の絵本が十冊も含まれるのはその証だろう。
興味深いことに、別人の署名入りの絵本が数冊あり、欧文サインの判読から矢部友衛
【やべともえ】(1892~1981)、寺島貞志
【てらしまていし】(1905~1983)が旧蔵者だと推察される。20~30年代に相次いで訪ソした二人のプロレタリア画家と光吉との繋がりは不明だが、いかなる経緯からか、彼らが現地で手にした稀少な絵本がここに紛れ込んで保存されたということらしい。
1953(昭和二十八)年、光吉夏弥は岩波書店の求めに応じて石井桃子とともに「岩波の子どもの本」の編集に携わった。戦後の翻訳絵本の出発点と位置づけられるこのシリーズで、光吉は広く欧米の30年代以降の絵本の翻訳紹介に努めるのだが、そのとき彼は手元にあったロシア絵本にはなぜか一顧だにしなかったのが惜しまれてならない。
それから数十年の長きにわたり、戦前のロシア絵本の隆盛は忘れられ、文字どおり「幻」と化してしまうのである。
(初出=2009年7月「白百合女子大学 児童文化研究センター報」36号)
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来たる3月7日、白百合女子大学で「
光吉文庫のロシア絵本について——コレクションの稀少性と歴史的意義」と題して話をする。その骨子は上に記したとおりだが、当日は多くの画像を用いて、より詳しく解説するつもりである。
https://www.shirayuri.ac.jp/childctr/usftro0000000b3c-att/a1575248056421.pdf