エルガーの管弦楽曲の名作《エニグマ》変奏曲がバレエになっている。フレデリック・アシュトンが振り付け、1968年にコヴェントガーデンのロイヤル・バレエが初演した。十年ほど前に "British Ballet Music" というCDが出たとき、この曲が収められていて、その一場面がジャケット写真に掲げられていたので、ほう、そんな演目があるのかと気づいたのだ。
昨日(1月22日)それを初めて観て、不覚にも涙してしまった。そのことを書いておこう。
舞台は1898年初夏のある日、ウスターシャーのエドワード・エルガー邸。三々五々、友人たちが集まってホーム・パーティが催されている。だが、肝心のエルガーは心配事で気もそぞろ、浮かない表情でひとり庭に佇む。
ようやく仕上げた管弦楽曲《エニグマ》を大指揮者ハンス・リヒターのもとに送り届けたものの一向に返事がなく、彼が演奏会で取り上げてくれるかどうか、作曲者は気を揉んでいる。すっかり自信喪失したエルガーは、周囲の賑わいをよそに、心ここにあらずといった様子なのだ。
用いられる音楽は原曲そのままだ。まず憂愁に満ちた主題が朗々と奏でられ、それを受け継ぐように十四の変奏が続く。各変奏にはそれぞれ頭文字で愛妻アリス("C. A. E.")や親しい友人たちの名が記され、エルガーを取り巻く人々の音楽的肖像(ポルトレ)を形づくる。
バレエはこの故事を忠実になぞるように展開されていく。良人の不安な心中を察したアリス夫人はそっと寄り添い、気持ちのこもったパ・ド・ドゥーを踊る。
そこに老若男女の知友が次々に現れて、こもごも自己紹介がてら踊りを披露する、というのがバレエの骨子をなす。第二変奏の "H.D.S-P."(ピアニストで室内楽の演奏仲間)は自転車で、第三変奏の "R.B.T."(アマチュアの俳優)は三輪車でそれぞれ登場し、周囲の人々と和やかに絡み合う。第七変奏の "Troyte" は陽気で活動的な男性として、第十変奏の内気な少女 "Dorabella" はおずおずと愛らしく。 だが、エルガーに憑りついた憂鬱は一向に薄らぐ気配がない。
最も胸に迫るのは第九変奏の "Nimrod" である。エルガーが書いた最も崇高な音楽として夙に名高いこの曲を、アシュトンは「ニムロッド」すなわち親友の楽譜出版者オーガスタス・イェーガーとエルガー夫妻、三人による「パ・ド・トロワ」として構想した。エルガーの心労を誰よりもよく知るイェーガーとアリス夫人とが、無言のうちに作曲家と心を通わせる。まるでチェーホフの芝居の一場面のようなきめ細かさ。崇高な音楽に最もふさわしい、崇高きわまる形象が与えられるのである。その繊細精緻でこまやかな表現力にしたたか打ちのめされた。バレエ=無言劇にはここまで凄いことがやれるのだ。
最後の第十四変奏 "E. D. U."(エルガー自身)では庭に全員が集う。そこに郵便配達が現れて電報を届ける。イェーガーが受け取り開封すると、ハンス・リヒターから初演指揮を受諾するという吉報だった。一同が賑やかに騒ぐなか、何事かと現れたエルガーにイェーガーが電報を手渡し、ホッと安堵して佇む作曲家のもとにアリス夫人が駆け寄る。そして全員が居並んで記念写真を撮るところで幕。ちなみにエンディングは現行版ではなく、滅多に聴かれない初期形なのも史実どおりで床しい。このとき書かれてリヒターが初演したのは、短く終わるこの版だったのだから。
なんという感動的なドラマだろう。スクリーンで観ていて涙が滲んだのだから、これを舞台で実見したら滂沱と泣いてしまったに違いない。2019年11月5日、コヴェントガーデン王立歌劇場で収録。「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ・シーズン 2019/20」でのトリプル・ビル上映、日比谷TOHOシネマズ シャンテにて。
この上映は本日まで(10:25~/14:15~)。TOHOシネマズ日本橋でもやはり本日まで(19:00~)。
英国音楽好きならば絶対に見逃してはならない。