今どき時代錯誤の誹りを免れないかもしれないが、ピアノで弾くバッハをことのほか愛している。ここだけの話、チェンバロ演奏よりも遥かに好もしく、心の深いところが揺さぶられる。エトヴィン・フィッシャー、ワルター・ギーゼキング、グレン・グールド、マルタ・アルヘリッチ、アンドラーシュ・シフ、アンジェラ・ヒューイット。折りに触れて無性に聴きたくなるバッハの鍵盤音楽はいつも決まってピアニストによる演奏である。
今日は協奏曲を続けざまに聴いている。この重宝なアルバムである。
"J. S. Bach: Six Concertos"
バッハ:
ピアノ協奏曲 第一番 ニ短調 BWV. 1052
ピアノ協奏曲 第二番 ホ長調 BWV. 1053
ピアノ協奏曲 第三番 ニ長調 BWV. 1054
ピアノ協奏曲 第四番 イ長調 BWV. 1055
ピアノ協奏曲 第五番 ヘ短調 BWV. 1056
ピアノ協奏曲 第七番 ト短調 BWV. 1058
ピアノ/ヴァッソ・デヴェッツィ
ルドリフ・バルシャイ指揮
モスクワ室内管弦楽団
1960年代中頃、モスクワ
米Angel/ Мелодия SRB-4108 (3LPs, 1968)
【第一番】https://www.youtube.com/watch?v=z87cBcJaqfM
【第五番 第二楽章 ラルゴ】https://www.youtube.com/watch…
独奏者ヴァッソ・デヴェッツィ(Vasso Devetzi 1927–1987)はギリシア生まれの閨秀ピアニスト。パリでマルグリット・ロンに師事し、近代フランス音楽とバッハ、ハイドン、モーツァルトを得意にした。歿後三十数年を経て、今や思い出される機会も稀だが、彼女がモスクワでルドリフ・バルシャイとその手兵と共演したバッハの協奏曲アルバムは知る人ぞ知る名演なのだ。
デヴェッツィの経歴は変わっている。フランスで地歩を固めつつあった矢先、1960年代に活動拠点をモスクワへ移し、ダヴィード・オイストラフ、ムスチスラフ・ロストロポーヴィチ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤら錚々たる面々と共演を重ね、ルドリフ・バルシャイ指揮でこのバッハ協奏曲全集のほか、ハイドンやモーツァルトの協奏曲の録音も残している。
彼女が冷戦下「鉄のカーテン」を易々と潜り抜けてソ連でキャリアを築けた理由は判然としない。彼女の政治信条が奏功したのかもしれないが、だとしても1970年代には国外追放後のロストロポーヴィチとパリで再会し、レコード録音まで残した経緯がよくわからない。しかも引退後のマリア・カラスと昵懇の間柄になり、半ば強引に歿後の財産管理権を手中に収めた。そのため周囲から遺産簒奪者の汚名を着せられ、内情をよく知るフランコ・ゼッフィレッリからはカラスを毒殺した真犯人(!)として名指しされた。ほどなくデヴェッツィも六十歳で急逝したため事の真相は藪の中なのだが。
いかんいかん、ヴァッソ・デヴェッツィについて語ろうとすると、どうしてもこちら方面の下世話で剣呑な噂話になってしまう。
よし万が一にでも後年のデヴェッツィ女史が強欲で極悪非道の殺人者だったにしても、彼女が雪解け下のモスクワで録音したバッハの協奏曲が稀代の秀演である事実は微動だにしないと信じて疑わぬ者である。