つい先日のこと、切手蒐集についての目新しいエッセイ集を店頭で見つけ、多大な興味とともに通読した。これが2020年における初読書となる。
新刊書の探しにくさにはいつも悩まされる。昨年十月に出たのを承知しながら、書店の棚や平台でなかなか見つけられず、先週たまたま新年会で上京した折り、丸の内の丸善でようやく手にすることができた。
いや~面白いのなんの、車中で貪るように読み耽り、帰宅前に読了。一読、巻を措く能わずとはこのことだ。もっとも、当方もまた切手蒐集家の端くれだから、普通の読者とは自ずと異なった感興を抱いて読み進めたに違いなく、以下の評言もそのつもりで、幾分か割り引いてお読みいただきたい。
四方田氏が子供の時分から切手を集めていたのは、彼のエッセイで以前から知っていた。たしかエッセイ集『もうひとりの天使』(1988)だったかと思うのだが、ノスタルジアと蒐集行為を結びつけて論じた章で、切手蒐集についても一文を草していたと記憶する。ベンヤミンの名高い箴言「切手は、大国が子供部屋で差し出す名刺である」も、この文章で知ったのではなかったか。数年前に書庫の大整理で多くの四方田本を処分してしまったのが悔やまれる。
四方田氏は小生と同い年(生年は1953年だが、早生まれなので同学年)であり、切手蒐集でもよく似た道筋を歩んでいる。父宛てに届く海外の郵便物に貼られた切手に興味を抱き、ガガーリンに始まるソ連の宇宙飛行士の切手に心ときめかせたのも全く同じパターンである。
新切手を求めて発売日には律儀に郵便局に行列し、1964年の東京五輪(小学六年だった)で頂点に達した切手ブームのさなか、クラス全員が「俄か蒐集家」に変じたのも、身に憶えのある同時代体験だ。
商業施設に店を構える切手商や「日本郵趣協会」ショールームで硝子ケースを食い入るように眺めた少年時代も、長じては海外の旅先で切手商の店に出くわすと入らずにはいられない性癖も、同じ病に罹った者として苦笑を禁じ得ない。
本書には永年にわたる経験と蘊蓄に裏付けられた「切手蒐集の秘かな愉しみ」の諸相が、胸襟を開いたのびやかな筆致で開陳される。
もちろん四方田氏らしい考察は随所にあり、女王陛下の肖像と英国帝国主義、アフリカのフランス植民地切手の図像分析、文化大革命期の「赤一色で彩られた」中国切手を論じた章などは、凡百の歴史家や政治学者の追随を許さぬ密度と筆鋒の鋭さを備えている。
とはいえ、本書全体に漂う雰囲気は、いたって融通無碍でノンシャランな、幸福な少年時代のそれである。著者はあとがきにこう記す。
わたしはこの書物を、純粋に愉しみのために書いた。義務や責任とはまったく無縁なところで、いわんや使命感とも無関係に。ただ自分が集めてきた切手について好きなことを書いてみたらさぞかし愉しいだろうなあ、という気持ちだけで書いた。書いているうちにその気持ちがどんどん先へ先へと進んでしまい、わたしの心を急かすのだった。
まさしくそのとおりの本である。
ここには四方田氏がともすれば陥りがちな晦渋な衒学趣味も、過去の自分への鼻白む粉飾もなく、ただひたすらに「好きなことを好きなように語る」ことの無垢な愉悦感のみが横溢する。こんなに楽しい本は滅多にあるものではない。