12月11日に柴田駿が亡くなり、13日にはアンナ・カリーナが世を去った。七十八歳と七十九歳。死ぬにはまだ早すぎるとはいえ、こうして恩義ある先人たちを見送るのは世の習いだと諦めるほかあるまい。
その柴田駿が興した「フランス映画社」が輸入した作品で封切時に最初に観たのは、フランス映画でなくデンマーク映画、カール・Th・ドライヤー監督の《奇跡 Ordet》(1955)。1979年3月、神保町の岩波ホールでだった。
そのドライヤー監督が生涯の最後に企画するも、撮影目前で歿したため幻となった映画《キリストの生涯》のオーディションに若きアンナ・カリーナが応募した、という話をどこかで読んだ覚えがある。きっと山田宏一さんの本のどれかだろう。デンマーク人の彼女がドライヤー映画への出演を望むのになんの不思議もないが、それでも頭がくらくらするような凄いエピソードである。
長じてパリで念願の映画女優となり、伴侶となったジャン=リュック・ゴダール監督の《女と男のいる舗道 Vivre sa vie》(1962)に主演したとき、ゴダールは名画座でスクリーンを凝視する彼女が大粒の涙を流すシーンをわざわざ挿入した。そのとき上映されていた映画がドライヤー監督の至高の名作《裁かるゝジャンヌ》(1928)だったのは偶然とは思えない。ゴダールはアンナ・カリーナとドライヤー監督との不思議な縁(えにし)を踏まえたうえで、この忘れがたい場面を考え出したのだろう。
小生がアンナ・カリーナの存在を初めて知ったのもゴダール作品でだった。今はなき有楽町の日劇文化で《気狂いピエロ》と《アルファヴィル》の二本立。前者にひどく困惑し、後者に深く共鳴した。どちらも主演女優にアンナ・カリーナを据えていた。《アルファヴィル》で終始にこりともせず、寡黙におし黙る彼女に魅了された。1970年5月31日のことだ。《アルファヴィル》はこれが日本初公開、封切り二日目の午後だった。
高校生には理解不能で、永らく敬して遠ざけていた《気狂いピエロ》の面白さを小生が知るには、1983年のリヴァイヴァル公開を待たねばならなかった。このときの配給元は「フランス映画社」、字幕も柴田駿が自ら手がけた。