1969年12月13日、岩城宏之が指揮するN響の公開収録演奏会に今井信子が登場し、ヒンデミットの《デア・シュヴァーネンドレーアー》を弾くのを聴いた。これこそが彼女の日本デビューではないか、とひとつ前の記事で指摘したが、そう言い切る自信はない。今井信子の自伝『憧れ ヴィオラとともに』(春秋社、2007)にその記述が出てこないからだ。
そもそも日本では未知の存在だった彼女がN響のソロイストとして抜擢された裏には、いかなる事情が潜んでいたのだろうか。実はそれを推測させるようなエピソードが彼女の自伝に明かされている。
ところがこの時点で、ソロイストとしてまだ駆け出しの今井信子は《イタリアのハロルド》はまるで未経験だったらしい。
この曲を弾くのは初めてだった。よく知らないので、メニューインが弾いたレコードを聴いて必死で勉強して、とにかく最初の練習に出向いた。岩城さんとは、その練習が初対面。そもそもオーケストラと共演した経験もあまりなく、当時はマネジャーもいないから、何もわかっていなかった。指定された時間の一分前に練習場に着くと、なにやら騒がしい。私がなかなか来ないので、みんな大騒ぎして方々を探しまわっていたのだという。岩城さんも日本人の女の子がみんなに迷惑をかけているというので、真っ青になっていらした。ソリストというものは練習の始まる三十分前には来るものだと、後で岩城さんにこんこんと教えられた。
ともかく、みんながあたふたしているところに小柄で子供のような私が飛び込んでいったのだ。そのときは赤い派手な服に毛皮の帽子をかぶっていて、それをかぶったまま練習した。騒ぎに臆する様子もなく弾くのを見て、みんなますます驚いたようだ、そんなことがあっても、岩城さんはとてもあたたかく迎えてくださった。またハロルドという曲は私にとても合っていたのだろう。本番は緊張することもなくとてもうまくいき、一九七〇年度の西ドイツ音楽功労賞を頂くことになった。
察するに、この1969年春に初共演した《イタリアのハロルド》の大成功が引き金となって、岩城宏之は今井信子をソリストとしてN響にデビューさせようと思いついたのではないか。物怖じしないこの娘は滅多にいない逸材だ、ぜひ日本の聴衆にも紹介したい、と。
そのためには、いきなり定期公演でなく、公開収録の演奏会のほうが何かと好都合だ――そんな配慮もはたらいたかもしれない。同年末に内幸町の旧NHKホールで小生が聴いたのは、おそらくそのような演奏会だったのだろう。
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フランクフルトで岩城と共演した《イタリアのハロルド》は、今井信子の名声を全ヨーロッパに広めるうえで決定的な役割を果たすことになる。
この演奏は、ドイツからヨーロッパ一円に向けて放送された。と、その放送をロンドンで聴いた、レコード会社フィリップスのチーフ・プロデューサー、エリック・スミスから、「フィリップスで《ハロルド》の録音に参加してほしい」という電報が来た。放送の翌日のことだ。コリン・デイヴィスがベルリオーズ全曲録音のプロジェクトを進めているので、ということだった。一九七五年にデイヴィスとロンドン交響楽団がロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで弾くから、そこでの演奏と録音を、という話である。
瓢箪から駒が出る、とはこのことである。
畢生の大作オペラ《トロイア人》世界初の全曲収録を含むコリン・デイヴィス指揮によるベルリオーズ録音プロジェクトは、フィリップスが全力で挑んだ大企画であり、その成果はレコード史に燦然と輝いている。
その一廓を占める重要作品《イタリアのハロルド》のヴィオラ独奏を、ほとんど無名同然の若手に委ねるのだから、これは異例な冒険的抜擢といえよう。逆に言えば、若き今井信子にはそれだけ原石の輝きがあったのだろう。
1975年5月に今井信子がコリン・デイヴィス&ロンドン交響楽団とともに収録した《イタリアのハロルド》のLPは絶賛をもって迎えられ、長くこの曲の規範的な名盤と見做されてきた。のびやかな音色で自在に歌う今井信子のヴィオラに、この曲の真価を初めて思い知ったというリスナーも少なくなかろう。名プロデューサー、エリック・スミスの耳に狂いはなかったのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=1k_USJ12i1w
https://www.youtube.com/watch?v=G1uJuOB-4ng
https://www.youtube.com/watch?v=ocHYNAuAzo0
https://www.youtube.com/watch?v=PUw1hhjOIQc
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だが今夜ぜひ聴こうと思うのは、この歴史的名盤ではなく、その陰で埋もれてしまいがちな今井信子のもうひとつの《ハロルド》である。1983年の実況録音、共演指揮はほかでもない岩城宏之なのだ。
《東京フィルハーモニー交響楽団名演集 Ⅰ》
ベルリオーズ: 交響曲《イタリアのハロルド》*
ブラッハー: パガニーニの主題による変奏曲
ヴィオラ/今井信子*
岩城宏之指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
1983年10月17日、東京文化会館(東京フィル第249回定期演奏会実況)
Livenotes WWCC-7208 (1991) *5CDsボックスより
コリン・デイヴィスとの共演から八年を経て、今井信子のヴィオラ独奏は自在さと強靭さをいっそう増しているようだ。炸裂する管弦楽に一歩も引けを取らぬ構えの大きさが感じられる。
岩城宏之の指揮は一聴したところ野放図に鳴らしているようだが、その実よく「引き際」を心得ており、無理のない音楽を紡ぎ出す。そこにヴェテラン指揮者ならではの老練な手腕をひしひしと感じる。これは語り継がれるべき見事な共演記録ではないだろうか。
併録曲は同じ定期演奏会からボリス・ブラッハーの《パガニーニの主題による変奏曲》。実演で聴けるのはかなり珍しかろう。パガニーニゆかりの《イタリアのハロルド》と、パガニーニに基づく現代音楽とを組み合わせたところに岩城のプログラム編成の冴えを感じる。演奏の出来も上乗だ。
思い返せばN響時代から岩城はどの演奏会にも必ず20世紀音楽を一曲は加えていた。その啓蒙的な貢献は計り知れない。忘恩なニッポン人は何ひとつ憶えちゃいないのだが。