1969年12月13日は土曜日だったから高校に登校した。期末試験中なのでサボることもできず、午後から東京で演奏会があるとわかってはいたが、ちょっと上京できそうにない。
NHK交響楽団が定期公演とは別に、NHKホールで特別な公演を催す。ただし収録用の演奏会なので入場は無料。往復葉書で申し込むと誰でもタダで聴けた。たまたまTVで告知を知り、それまでN響を生で聴いたことのない小生は勇んで申し込んだら抽籤に当たって通知が届いた。だがあいにく試験日と重なってしまったので一旦は諦め、返信葉書も家に置いてきてしまった。
ところが当日、なぜか胸騒ぎがして俄かに心変わりし、どうしても演奏会が聴きたくなった。そうなるともう矢も楯もたまらなくなる。
その日の日記を引くが、あまりにも稚拙な修辞は少しだけ改めてある。
テスト中なので無理かと思ったが、今日になって急に予定変更、家に電話して母にハガキを[途中の駅まで]持ってきてもらうなどして、とにかく1時25分頃にはNHKホールに着いた。ここに来たのは初めてだ。
急いで注記すると、ここでNHKホールと呼んでいるのは現今の渋谷区神南にある巨大な会堂ではなく、その前身で千代田区内幸町にあった旧NHKホールのことなのである。
NHKホールは定員700人程度のやや小さめの会場だが、予想したより立派で、品格のあるホールだと思った。
演奏はさすがにN響だけあって素晴らしかった。
「さすがにN響だけあって」が恥ずかしい。田舎の高校二年生は権威と世評に弱かったのだ。葉書と引き換えに入口で手渡されたチケットに記された当日のプログラムを書き写しておこう。
【NHKシンフォニーホール/NHKコンサートホール 同時収録】
12月13日(土)午後2:30開場 3:00開演
NHKホール(もより駅 国電=新橋、地下鉄=新橋、虎の門、霞ガ関)
管弦楽/NHK交響楽団
ビオラ/今井信子
指 揮/岩城宏之
曲 目/
ヘンデル作曲 組曲「王宮の花火の音楽」
ヒンデミット作曲 シュヴァンネンドレーヤー
チャイコフスキー作曲 交響曲 第5番 ホ短調
チケットに押捺された座席番号は「ほ 31」。朧げな記憶だと、ホールの座席列は「いろは順」に名づけられていたはずで、小生の席は前から五列目ほぼ中央という絶好の場所だった。
着席すると堂内にアナウンスがあり、最初の演目がベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》に変更されたと知る。日記の続きはこうだ。
岩城の指揮もさすがである。ベルリオーズは生き生きした好演、チャイコフスキーは堂々たる熱演だ。[楽団員には]テレビで見知った海野さん、堀さん、千葉さんの顔もあった。
演奏会には新しい発見がほしいところだが、今回はそれも充分に満たされた。ヒンデミットの作品がそれである。「シュヴァンネンドレーヤー」は前に[ラジオで]聴いたことがあり、耳にするのは二度目だが、とても感動した。「画家マティス」にもみられるヒンデミットの特徴が、この曲にもはっきりと表れていた。それにしても美しい曲だ。
独奏ヴィオラを弾いた今井さんは、若く、美しい娘さんだ。こうして書いている私の耳に、まだあのヴィオラのうっとりさせる響きが残っている。(同夜10時過ぎに記す)
あな恥ずかしや、書き写すのが苦痛である。もっとなんとか書けないものか。「とても感動した」「美しい曲だ」では何も語ったことにならないのに。
ちなみに文中「シュヴァンネンドレーヤー」と記されているのは、ヒンデミットが自分を独奏者に想定して作曲したヴィオラと小管弦楽のための《デア・シュヴァーネンドレーアー Der Schwanendreher》(1935)のことだ。《白鳥の肉を焼く男》としばしば邦訳される。
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それはそれとして、当日の演奏会が何よりも重要なのは、これが稀代のヴィオリスト今井信子さんの日本デビューと考えられるからだ。
今井さんの自伝『憧れ ヴィオラとともに』によれば、彼女がヴィオラに転向したのは1964年夏だったという。桐朋学園弦楽合奏団の一員(ヴァイオリニスト)として渡米中、タングルウッド音楽祭でたまたまボストン交響楽団の演奏会を聴いたとき、リヒャルト・シュトラウスの《ドン・キホーテ》の独奏ヴィオラの音色に惹かれ、電撃に打たれたように突然ヴィオラの素晴らしさに開眼したとのことだ。
それからイェール大学とジュリアード音楽院でヴィオリストとして研鑽を積み、マールボロ音楽祭への参加、ミュンヘン(1967)&ジュネーヴ(1968)両コンクールでの優勝と、今井さんの活動の場はすべて海外だったから、1969年末の時点で日本での知名度はほぼゼロに等しかった。
今井信子の正式な日本デビューは、1971年6月20日に催された日生劇場でのリサイタルとされる(ピアノは小林道夫)。同年8月の『音楽現代』に載った批評記事は「新人登場」と題されており、彼女の演奏が新鮮な驚きとともに迎えられている。
それに一年半も先立つ1969年12月13日の岩城&N響との共演がヴィオリスト今井信子の日本初登場だったことに、ほとんど疑問の余地はないように思う。それとは知らず、期せずして歴史的瞬間に居合わせたことは、きっかり半世紀を経た今も、わが秘かな自慢なのである。