E・T・A・ホフマンの童話『くるみわりにんぎょうとねずみの王さま』の一節である。訳文は講談社の『ドイツ童話集』(1960年刊)に収められたもの。往時のドイツ文学者、塩谷太郎の名訳である。
子供時代の愛読書だが、六十年近く経った今も奇蹟的に手元にある。「世界童話全集」全十八巻のうち、この一冊だけが家にあった。刊行から間もなく、母方の叔母が誕生日にプレゼントしてくれたのである。
ここに収められた『くるみわりにんぎょうとねずみの王さま』は小生が初めて読んだ(子供にとって)長篇小説と呼ぶべき物語だった。分量が百四十八ページもあり、ぶ厚い童話集の半分を占めている。夢中になって読み耽り、終わるとまた最初から読んだ。小学二年の秋のことである。
なにしろホフマン作品だから物語は至るところ驚異と逸脱に満ち、奇想天外このうえない。主人公のマリーが親戚のドロッセルマイエル伯父さんからクリスマスの贈物として不格好な木製の胡桃割り人形を貰う。夜になると玩具の兵隊たちが二十日鼠の軍勢と闘う。玩具の兵隊の指揮官が胡桃割り人形だ。
胡桃割り率いる軍が劣勢に追い込まれ、あわやというところでマリーが咄嗟の機転で靴を投げつけ、二十日鼠の王様をやっつけて戦はめでたく勝利に終わる。
戦勝のお礼にと、胡桃割り人形はマリーをお菓子の国に案内する。そこでは建物も木立も動物たちもすべてお菓子でできている。「こおりざとうのまきば」「はたんきょうとほしぶどうの門」「オレンジの川」「こしょうがしの村」「さとうづけのくだものの森」。「巴旦杏」も「胡椒菓子」もさっぱり実態は不明だったが、文学の力というべきか、わからないなりに食いしん坊の小学生の食欲をそそったのだ。いったいどんなお菓子なんだろう?
冒頭に引いたのも、お菓子の国の描写の一節である。「マルチパンのしろ」も皆目わからない。わからないのに、いかにも旨そうで涎が出る。
❖❖❖
いやはや長生きはしてみるものだ。その「マルチパン」のなんたるかが、今ようやくわかったのである!
つい先日のこと、パン作り名人の旧友から焼きたてのシュトーレンを頂戴した。クリスマスが近づくと毎年いくつも焼くのだといい、「よろしかったらどうぞ」とお裾分け下さったのだ。パン生地からフィリング(詰め物)まですべてが自家製で、驚くほど旨い。これまで食べたなかで、間違いなく最も美味しいシュトーレンである。
フィリングには洋酒に漬けたレーズン、クランベリー、無花果などがふんだんに混ぜ込んである。ほどよい歯応えが絶妙だ。
そのなかに、黄色味を帯びた丸いペースト状の部分があり、とろりと甘くて美味しい。食感はきんとんに近い感じだが、仄かにナッツ風味がする。
これは一体なんだろう? 気になったので、お尋ねしてみたら「ああ、あれはマジパンといって、アーモンドの粉をペースト状に練ったもの。シュトーレンのフィリングにドイツではよく使われます」との返答を得た。
ウィキペディア曰く、
マルチパン(独: Marzipan)またはマジパンは、砂糖とアーモンドを挽いて練りあわせた、餡のような食感と独特の風味がある洋菓子。スペインのトレドやラ・リオハ、ドイツのリューベックやシチリアのパレルモの名物として知られる。
二十数年前に仕事でミュンヘンへ出向いた折りに、菓子屋のショーウィンドーに並ぶ色とりどりの練り菓子を目にした。色合いはゼリービーンズのようにカラフルで、新粉細工そっくりに人物や動物を模してある。同行の人から「これがMarzipan細工だよ」と教えられ、子供時代からの積年の疑問は一応の決着をみたのだが、些かどぎつい色彩に怖気づき、そのときは一向に食指が延びなかった。
ところがどうだ、マルチパンはこんなに旨いと今やっと思い知った。アーモンド粉がかくも口当たり滑らかなお菓子になるなんて想像できなかった。そうだ、今年のクリスマスにはホフマンの童話を再読しよう。お菓子の国が少しだけリアルに想像できそうだ。ちなみに「巴旦杏」はアーモンドともプラムの類ともいい、未だに決着を見ていない。