河原崎長十郎の自叙伝は驚くべき出来事の連続である。晩年は毛沢東の中国に帰依し、その政治信条に役者人生をも捧げた長十郎だったが、若き日のロシア文化への熱烈な没頭ぶりにも強く胸を打たれる。
彼は1928年夏に松竹が企てた市川左団次一座の訪ソ公演に加わり、モスクワでエイゼンシュテインと親交を深めたのだが、そのあとベルリン、パリ、ロンドンを経て、再び単身モスクワへ戻ってきた。そこで秋の演劇シーズンに遭遇し、毎日のように観劇三昧、モスクワ芸術座の面々とも親しく交友する。彼の遺著『ふりかえって前へ進む』(講談社、1981年)から一節を引く。
スタニスラフスキーのところで歌舞伎の型を披露したときに、俳優ばかりじゃなくって、コンチャロフスキーという、日本でいえば岡田三郎助、和田英作さんというような油絵の大先生が来ていたらしいんです。その先生が、「僕のところへ来ませんか、ちょっと貴方の絵が描きたいんだけれども、一週間ばかりあけてくれませんか」というのでモデルになりました。やっぱりプドフキンの家ぐらいの大きさで、下が三十畳か四十畳ぐらいの広さの部屋、ギャラリーがあって、ギャラリーの上で食事をしたり生活したり、下は大体アトリエに使っているらしいんです。わたしは紋付きやなんかは全部日本へ送ってしまったんで、派手な浴衣しか残っていないから、それと角帯を持っていきましたら、「それで結構です」ということで、『曾我対面』の五郎が工藤に盃を求められて、右の足をポンと出して、右手で盃を持って見得をする形を描いてもらうことになりました。
この絵の描き方が変わっていました。最初は木炭で五、六枚デッサンをとったりしてましたけど、キャンバスになってからは、二メートルくらいのキャンバスで、コンチャロフスキー先生、わたしのほうを横目でみながら、そのキャンバスまで「ウオーッ」と唸り声を出して駆けだしていくんです。そして木炭みたいなものでその大きいキャンバスに描いて、ひっこんでいくと、また私のほうを横目でみて、また「ウオーッ」と駆けだしていくというような大げさな絵の描き方でした。こうしてほんの四、五日ということだったのが、十日近く通うことになってしまって、すっかり仲良しになりました。通訳のプラットネル夫人もずうっと一緒にいてくれましたけれども、先生曰く、「僕は日本語ができないし、貴方はロシア語ができない。言葉はわからないけれども、貴方が僕を好きであり、僕も貴方が好きであることは、言葉をこえてよくわかっています」なんていうわけで、おしまいには先生の絵を一枚、わたしのデッサンを一枚いただいて帰ってきました。
この印象的な一節は長く記憶に残っていた。だから2003年9月、「幻のロシア絵本」展の準備のためモスクワを訪れたとき、たまたまトレチャコフ美術館の新館(モスクワ近代美術館)の広い部屋に、まさにその絵の現物が展示されているのを発見して、思わず息を呑んだのだった。
館内での撮影は禁じられていたが、監視のおばさんが別室に出かけて不在だった隙にパチリ。往年の日露の麗しい友好に免じて許してほしい。
ピョートル・コンチャロフスキー《日本の役者 河原崎長十郎の肖像》1928年 油彩、カンヴァス 174 x 143.5 cm
*この絵は長くコンチャロフスキー家のコレクションにあったが、近年オークションで売りに出され、あえなく行方知れずとなった(→これ)。