一夜明けると、昨日までの鬱陶しい雨降りが嘘のよう、雲間にあちこち青空が覗いている。しかも入道雲までむくむく湧き上がってきた。正式な発表はまだだが、どうやら梅雨明けも間近らしい。
昨晩は雨傘を小脇に持参して上京し、巣鴨駅前の東音ホールという小さな会場に赴く。早く着いたので近所の定食屋で軽く夕食を摂り、会場時刻の少し前に着くとまだ誰もいない。一番乗りだったから最前列中央に陣取る。待ちに待った演奏会とあって感慨無量。なにしろ三十年以上も待ったのだから。
巣鴨にこんな小ホールがあったなんて知らなんだ。全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)が保有するホールだそうで、しょっちゅう演奏会を催し、ヴィデオ収録してネット上でも公開しているのだとか。予約すれば入場は無料、というか終演後に好きな額を支払う「投げ銭方式」である。
この凝りに凝ったプログラムには誰しも目を瞠るだろう。口開けの《ドリー》と後半冒頭の《マ・メール・ロワ》を除くと、ほとんど誰も知らない秘曲がずらり。小生にとっては最後に置かれた鍾愛のフローラン・シュミット《小さな眠りの精の一週間》がお目当てだが、カプレやフランセの連弾曲もディスクで聴いたことはあるが、実演は初めてだ。
それていて「フランス近代の重要な作曲家による子供に因んだ連弾ピアノ音楽」という範疇にぴたり収まる。この秀逸な曲目編成は青柳いづみこさんの手になるもの。博捜の研究家の面目躍如たるところだ。その青柳さんも「普通ではとてもこんなプログラムの冒険は許されない。少人数の招待客だけを集めたピティナの会だからこそ可能な演奏会なのよ」とおっしゃる。まことに千載一遇の機会なのだ。
子供を題材とした連弾曲はしばしば親と子、あるいは先生と生徒が並んで弾くのを前提とし、多くの場合プリモ(高音部)が子供に委ねられるらしい。《ドリー》にもその気味があるが、カプレの組曲《小さなこといろいろ Un tas de petites choses》では歴然とする。 高音部は白鍵のドレミファソラシドしか弾かないのだ。そのぶん、低音部のセコンドは玄妙な和音を担当し、全体としては紛れもなくドビュッシー時代の音楽が流れだし、絶妙な味わいを醸す。実演だとピアニスト二人の役割が好対照をなすのが視覚的にも明らかだ。正確な作曲年代は定かでないが、出版年はカプレが歿した1925年である。
続くジャン・フランセの《オーギュスト・ルノワールの子供たちの十五の肖像 Quinze Portraits d'enfants d'Auguste Renoir》は1971年の作。ルノワールが描いた子供の肖像画十五枚それぞれを可憐なミニアテュール的小曲にしたもの。スライドで原画を投影しながらの演奏は愉しいものだが、かつてルノワール展を担当した者として言わせてもらうと、絵と音楽との結びつきは緩く、互いの連関性はほとんど感じられない。フランセらしく平明で親しめるものの、あまり内実を伴わない音楽だ。とても1970年代とは思えぬ保守的な作風だが、ところどころ不協和音が混じるのはまあご愛敬か。
と、ここまでが前半。冒頭の《ドリー》を除き、プリモを西本さん、セコンドを青柳さんが担当した。ペダル操作を含め、セコンドのほうに主導権があるらしく、遥かに大変そうに見える。
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後半にはラヴェル《マ・メール・ロワ》(1910)とフローラン・シュミット《小さな眠りの精の一週間》(1912)が仲良く並ぶ。どちらも童話(前者はペローなどフランス古典童話、後者はアンデルセン)に基づく連弾組曲で、のちに管弦楽化されバレエとして上演されたのも同じだし、ともに子供たちに献呈され、中国に取材した曲を含むところまで共通する。後者が前者を強く意識したことは明らかだが、前者がラヴェルの代表作となったのに較べ、後者は未だ知る人ぞ知る「隠れた傑作」に留まっている。小生が三十年以上も待ち望んでいたのは、この曲の生演奏なのである。胸の動悸が収まらない。
青柳さんが弾く《マ・メール・ロワ》というと連弾相手はいつも高橋悠治だったから、こちらも気が気でなかったのだが、今回のセコンドは若き逸材の西本さんだから安心して聴けるし、なによりラヴェルの巧緻で無駄のない、水際立った書法を心行くまで愉しんだ。曲間に挟まれた青柳さんのナレーションも手際のよいものだ。中国趣味の「パゴダの女王レドロネット」では西本さんが(管弦楽版に倣って)低音のゴング音を響かせたのも面白い。
《小さな眠りの精の一週間 Une semaine du petit Elfe Ferme-l'Œil》は目覚ましい聴きものだ。手元にある七種類の音源を取っかえ引っかえ親しんできたはずなのに、実演に接すると未知の音楽のような新鮮な趣がある。目から(耳から)鱗がごっそり落ちる思いがした。
七夜の夢に対応する七曲すべてが魅惑的だが、緩急交互に配された「急」にあたる四曲、すなわち「二十日鼠の婚礼」「眠りの精の馬」「石板の文字のロンド」「中国の傘」がことのほか目覚ましい。弾みのついたリズム、光彩陸離たる色彩感、推進力あるテンポ。今宵の演奏はレコードに聴くカサドシュ夫妻の怜悧で端正な解釈とはずいぶん違い、スリリングで瑞々しい生命力を帯びたものだ。
子供たちが弾くために書かれたのに、高度な技巧を要する難曲であり、とりわけセコンド奏者は大変だ。低音から高音まで満遍なくカヴァーしなければならず、西本さん右手はしばしばプリモの青柳さんの左手と交叉して高音領域を「侵犯」する。二人の手が衝突しはしないかと固唾をのんだ。これが観られたのも生演奏ならではの醍醐味だろう。